役に立たない人というのは私のことだが、現在の社会で役に立たないとは
どういうことなのか。
社会の役に立たないのと、社会に害悪をなすことは違う。
前者は生産性がほぼないことであり、後者は他人から生産性を奪うことである。
例えば麻薬売買とかは後者であろう。
資本主義社会ではお金が全てだが、私は1円の価値も生み出していないので、
まさに無能の人間である。
生活保護者を無条件に嫌う人は、脳の基準がお金儲けできるかどうかに
なっているのだろう。
しかし、大金を稼ぐ人ほど偉いかというと、そうではない。
医者の大半はファンドマネージャーよりも収入が低いと思うが、どちらが
社会の役に立っているかは明白だ。
それに警官や消防士のような公務員も、お金儲けのために働いているわけ
ではないが、社会になくてはならない人である。
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では、何らかの消費をしていれば、経済に関わっているので役に立っている
のだろうか。
例えば大金持ちの家に生まれ、一生働くことなく生活している人がいるとする。
高級品を惜しげも無く買って、毎日遊んで暮らしていても、たくさん消費して
いるので社会の役に立っている、というわけだ。
しかしこれも、お金儲け基準の考え方に染まっているから、消費は美徳と思う
のだろう。
バブル期にたくさんの人が消費したはずだが、果たして何が残ったか。
無意味な消費は、経済の持続性には寄与しないのではないだろうか。
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こないだ読んだ「ゆかいな仏教」によれば、仏門に入って修業するということは、
生産活動の輪から外れるということらしい。
修行僧は自分で食べ物を作ってもいけないし、お金儲けもしてはいけない、と
されている。
だから食べ物を分けてもらい、修業に専念する。
死ぬのも基本的には野垂れ死にである。
社会の人がみんな修行僧になったら、誰も生産活動をしなくなって崩壊してしまう。
だから在家修業というものが生まれたのだ、とされる。
さて、私に野垂れ死にの覚悟はあるか。
別に仏門に入って修行しているわけではないので、そういう死に方をしなくても
いいのだが、社会の生産活動から離れているということは、まともに死ぬことは
ないということだ。
身寄りのない老人として、介護されながら生きるよりは、どこかできちんと自分の
身の始末をした方がいいのではないか。
役に立たないなりに、そう思う。