Boaz2014-06-09

役に立たない人というのは私のことだが、現在の社会で役に立たないとは
どういうことなのか。


社会の役に立たないのと、社会に害悪をなすことは違う。
前者は生産性がほぼないことであり、後者は他人から生産性を奪うことである。
例えば麻薬売買とかは後者であろう。


資本主義社会ではお金が全てだが、私は1円の価値も生み出していないので、
まさに無能の人間である。
生活保護者を無条件に嫌う人は、脳の基準がお金儲けできるかどうかに
なっているのだろう。


しかし、大金を稼ぐ人ほど偉いかというと、そうではない。
医者の大半はファンドマネージャーよりも収入が低いと思うが、どちらが
社会の役に立っているかは明白だ。


それに警官や消防士のような公務員も、お金儲けのために働いているわけ
ではないが、社会になくてはならない人である。



では、何らかの消費をしていれば、経済に関わっているので役に立っている
のだろうか。


例えば大金持ちの家に生まれ、一生働くことなく生活している人がいるとする。
高級品を惜しげも無く買って、毎日遊んで暮らしていても、たくさん消費して
いるので社会の役に立っている、というわけだ。


しかしこれも、お金儲け基準の考え方に染まっているから、消費は美徳と思う
のだろう。
バブル期にたくさんの人が消費したはずだが、果たして何が残ったか。
無意味な消費は、経済の持続性には寄与しないのではないだろうか。



こないだ読んだ「ゆかいな仏教」によれば、仏門に入って修業するということは、
生産活動の輪から外れるということらしい。


修行僧は自分で食べ物を作ってもいけないし、お金儲けもしてはいけない、と
されている。
だから食べ物を分けてもらい、修業に専念する。
死ぬのも基本的には野垂れ死にである。


社会の人がみんな修行僧になったら、誰も生産活動をしなくなって崩壊してしまう。
だから在家修業というものが生まれたのだ、とされる。


さて、私に野垂れ死にの覚悟はあるか。
別に仏門に入って修行しているわけではないので、そういう死に方をしなくても
いいのだが、社会の生産活動から離れているということは、まともに死ぬことは
ないということだ。


身寄りのない老人として、介護されながら生きるよりは、どこかできちんと自分の
身の始末をした方がいいのではないか。
役に立たないなりに、そう思う。