はじめての言語ゲーム

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)

はじめての言語ゲーム (講談社現代新書)

ヴィトゲンシュタインって、なんか難しそう……と思った人にとって
超おすすめ。
なんだけど、私は文系なので、最初の方の数学の話はよく理解できな
かった。


そこをなんとか乗り越えて、後半の言語ゲーム理論から派生した、仏
教や国学の話になると、がぜん面白くなる。
あわせて「ふしぎなキリスト教」を読めば、なおよろしい。


最終章のポストモダン批判も鋭くてよかった。

 言語ゲームの考え方は、さまざまな伝統社会や文明を見比べるのだが、
それは、価値相対主義とは違う。
 価値相対主義は、「この伝統社会も、あの文明も、同じように価値が
あるんですよね。よかったですね、はいさようなら」で、問題を解決し
ない。自分がどこに属するのかも気にしない。責任もとらない。


 言語ゲームの考え方は、「すべてが言語ゲームである」が出発点である。
 だからまず、自分がどんな言語ゲームに属しているか、から確かめはじ
める。そのルールを記述するのに、外的視点をとる。(でも、もとの言語
ゲームからすっかり抜け出るわけではない。)そのうえで、自分が属する
ほかの言語ゲームや、自分が属さないほかの言語ゲームについて、考えて
いく。

 どんな言語ゲームにも、その価値と意味がそなわっている。
 自分が属する言語ゲームの価値と意味を、ないがしろにはできない。
それは自分にとって、大事な価値、大切な意味だ。(たとえば、現代の
日本社会を生きる人びとにとって、自由やお金は大切だ。)


 でも。


 どんな価値も、また意味も、永遠、不変のものではない。それは、
人びとの「ふるまいの一致」によって、支えられているだけである。
そして、「ふるまいの一致」は、なにものによっても支えられてい
ない、からだ。

 ふるまいが一致するのは、ルール(規則)による。
 でも、ふるまいが一致するかどうかは、事実の問題である。(人びと
がサッカーをやるのは、そのルールに従うから。でも、人びとがサッカー
をいつまでも続けるとは限らない。)


 ゆえに、どんな言語ゲームからも、いつかは抜け出すことができる。
どんな言語ゲームも、だんだん別の言語ゲームに変えていくことができる。
(これは、困った社会の現状でも、根気よく向きあえば、いつか道は開ける、
と希望をもってよいということだ。自分の属するどの言語ゲームからも
いっぺんに抜け出すことは、もちろん、できない相談だけれど。)

(p 256-258)


引用が長くなってしまった。
でも、ヴィトゲンシュタインは希望の哲学を語っている、ということは
分かった。
この本が若い人にもっと読まれますように。