「歴史認識」とは何か

本書の帯に「自虐でも、独善でもなく」と書いてあり、読んでみてその通りだと
思った。
戦争の加害者として、また敗戦国の被害者としての立場を、なるべくフェアに
考えていくと、この本のような結論に至るのではなかろうか。



なるほどと思った箇所を引用してみる。

 二十一世紀の在日韓国・朝鮮人の大部分は、言語にしても生活のスタイルにしても、
まったく一般の「日本人」と変わらない。それなのに、朝鮮人なり韓国人としての
アイデンティティを韓国や北朝鮮の国籍、つまり国家の一員であることに求めると
いう呪縛−−わたしは、これは呪縛といってよいと思います−−は、在日韓国・朝鮮人
間にまだかなりの程度残っています。韓国語もできず、韓国文化に従って生きているわけ
でもなく、韓国の参政権もない人達が韓国国籍に固執しているとしたら、それはひどく
空虚な国籍ではないか。実際、在日韓国・朝鮮人の知識人や民族的指導者が何をいおうが、
帰化者は毎年七千〜一万人程度に上がっていますし、かつては例外だった日本人との結婚も
今日圧倒的多数を占めています。(p 111)

 わたしがずっといってきたのは、「俗人」目線の大切さです。どの国も、社会を構成して
いる人たちはほとんどが俗人なのだから、「歴史認識」や他者に対する要求は、そういう人
たちに受け入れられる、「俗人ができることなのかどうか」という基準で考えるべきなのです。
(中略)
 ところが八〇年代ごろから、いわゆる進歩派、左翼、リベラルの間で、そしてメディアで、
戦争や植民地支配について、きっぱりと加害と被害に分ける二分法的な物言いが目立つように
なってきた。そのなかには、加害者としての日本人は、被害国からの批判に対しては、何を
言われてもじっと我慢して聞いていなければならないという論調もあった。
 とくに嫌な感じがしたのは、「無限に頭を垂れる」というセリフが出てきたときです。無限に
頭を垂れるなんて、わたしにはできないし、ほとんどの人もできないだろう、そういうことは
偽善そのものだ、と思いました。戦争責任や植民地支配に関しては、韓国や北朝鮮、中国から
たとえ事実と違うことをいわれて非難されても反論してはならないというのは、おかしい。それは
実は相手を同等の人間とみなしていないことではないか。(p 121-122)



侵略したことや植民地支配をしたことは、きちんと謝るべきだと思うけれど、
それを政治的に利用したり、間違ったことを言われるのは違うだろう。
そういう考えの人はわりと多いのではなかろうか。


本書でも詳しく書かれているが、「アジア女性基金」については、もっと
知られるべきだろうし、韓国挺身隊問題対策協議会という組織が和解を
ぶちこわしていることも、もっと報道されるべきだろう。


この本が早く英訳・韓国語訳・中国語訳されるといいと思う。