米朝らくごの舞台裏

今年亡くなった桂米朝の持ちネタを紹介して、その噺にまつわるエピソードや余談を
入れたもので、まさに舞台裏の話が面白かった。
これを読んだら、また米朝の落語が聴きたくなるに違いない。


それにしても、博覧強記の学者肌だと思っていた桂米朝も、芸人らしい変なことを
しているものである。
ちょっと本書から拾ってみると

米朝イラチ伝説」で最も有名なのは「水虫目薬事件」。お弟子さんたちと歓談して
いた米朝師、目の前に置いてあった小さな薬瓶を取り上げると、レッテルを確認して
「水虫の薬か……」と言うと、いきなり目に点したというのだ。これは現場に居て
目撃したお弟子さんからうかがったのだから間違いはない。
「しっかり見て、はっきり『水虫の薬やな』と確認してから点さはりました。われわれも
見てたんですけども、あまりに堂々としてはったんで止めるのを忘れてました」


 もちろん、師は七転八倒の苦しみ。早々に近所の眼科で洗浄してもらってことなきを
得た。そんな師匠のことをお弟子さんたちは「落ち着いたあわてもん」と評する。
(p 120)


こういうのもあった。

米朝師は「死」に対して、とても淡泊な性格ではないかと思う。例えば、同じ四代目
米團治門下の兄弟弟子で、なにかわからないことがあると「悦ちゃんに聞こう」と言って
たよりにしていた盟友・矢倉悦夫こと桂米之助師が亡くなった知らせを、大阪のホテル
プラザにあったマルコポーロというラウンジで飲んでいたとき受け取った。今まさに、
ウェイターに酒の肴を注文しようとしていたところにかけつけたマネージャーから、
「いま、米之助師匠が亡くなられました」と報告を受けた米朝師は悲痛な声で、
「えっ! 悦ちゃん、死んだか……」とつぶやいた。そして、数秒の沈黙のあと、
「サイコロステーキを……」とウェイターに注文を発したという。


 このエピソードを聞いて、米朝師のことを薄情な人と思ってはいけない。師の中では
哀しみは哀しみ、食欲は食欲なのだ。と言っても、クールな合理主義者というわけでも
ない。師匠をはじめとする先人たちばかりではなく、年若い弟子たちや友人たちを多く
見送った体験が、哀しみをどこかでせき止めることのできる心を作ったのかもしれない。
(p 136)

この感じは何となく私にも分かるのである。



もうひとつ、米朝ラジオ大阪で1964年10月から1968年まで、小松左京と一緒に
「題名のない番組」という30分番組をしていたという。
このラジオ番組はリスナーからのハガキのレベルが尋常ではなく、伝説の番組に
なっているらしい。

 番組が終わってからだいぶたってから、小松先生が大蔵省に行ったところ、ある
キャリアが「ぼくは『題なし』に二回採用されました」と申告してきたそうだ。
すると、そばに居た一年先輩のキャリアが「おれは三回採用されたぞ」と威張った
という。
(p 144)


いったい、どんな内容のトークをしていたのか、聴いてみたかった。
いま、ハガキ職人と呼ばれるような人は、どんなところに投稿しているのだろうか。
それとも、そういう文化はほとんどなくなってしまったのか。