Boaz2015-03-02

アニメ「赤毛のアン」第47話『死と呼ばれる刈り入れ人』を見た。
マシューが死ぬ話である。
いま風に言えば神回だった。


といっても、この話だけ見てもそれほどとは思わないないだろう。
やはり第1話から積み重ねての感動である。


本来なら放送された1979年にそういうことを誰かに語りたかったのだが、
あいにくネットもなかったし、子供だったのでよく理解できなかった
と思う。



私は人が死んでも号泣したことはない。
ネコが死んだ時には嗚咽混じりに泣いた。
泣きながら、あ、本当に泣きすぎたら喉がヒックヒックするんだな、
と変に感心したのを憶えている。


アンはマシューが死んでから、しばらくは涙が出なかった。
一人きりになってもまだ泣けず、前日の夕方にかけられたマシューの
言葉を思い出して、ようやく堰を切ったように泣けたのである。


この、あまりに激しい悲しみの渦に放り込まれると、泣く余裕もなく
なる、という体験は、ある程度の人生を経験した人には分かるのでは
ないだろうか。


なので、泣けることはある意味では幸せなことである。


あと、アンの気持ちが理解できないながらも、一人にしてあげた
ダイアナの優しさが心にしみた。
嫁にするならダイアナだな。



ところで、米国のようなカップル強制文化圏だと、一度も結婚しない
老人というのは異常な人間に思われるが、カナダではそうでもないの
だろうか。


マシューは寡黙な働き者で、悪い評判などなかったはずだけれど、
そういう人は多かったのか、それとも例外的だったのか。


日本もこれから一度も結婚したことがない老人が激増するのだが、
世間はどう思うか、長生きできたら自らを実験台にして聞いて
みたい。