古典を読んでみましょう

私は古文が苦手で、今もとっつきにくい。
文法から入るのがいけなかったのかもしれないが、英文法はそれほど
苦痛でもないから不思議だ。


橋本治は、自分で分からないことがあると、自分で教科書を作ってしまう
人である。本書もそのひとつで、学生は読んだ方がよろしい。


といっても、これを読んだからといって古文がたちまち分かるようになる
とか、好きになるわけでもない。
面倒くさいけど読んでみようかな、という気持ちを手助けするぐらいか。


私が面白かったのは、浦島太郎や一寸法師がもともとはどういう物語だった
か、というところで、なんか変な話だったのを、子供向けに変えてしまった
んだなぁ、という平凡な感想をいだいてしまった。



生活習慣が全く違うところの物語を、テキストだけから読み取ろうとしても
厳しい。だから、書いた人が当然と思っていることは書かれておらず、
そこが分かるように解説しなければいけない。


しかし、高校の古文の先生はそんな話はしてくれず、ひたすら教科書を文法
的に説明して、係り結びや活用を答えさせるばかりだった。


なぜなら、古文のテキストをテストにするためには、そういう方法でないと
採点しにくいからである。
それは本末転倒な話で、古文はテストのためにあるのではない。


といっても、これは負け犬の遠吠えで、古文が得意な人は、文法もきちんと
覚えるし、内容も咀嚼できていた。
勉強しなかった自分が悪い。



日本の優れているところは、人々が様々な記録を残しているところだという。
識字率が低い国では、公式文書しか残っていないので、普通の人がどういう
生活をして何を考えていたか、ということがほとんど残されていないらしい。


ネット社会になると、私のブログのようなどうでもいい文章が膨大に記録
されている。
未来の研究者はどういうことを思うだろうか。
というか、ネット上の記録はどこまで保存されるのか、誰も分からないが。