「自分」の壁

「自分」の壁 (新潮新書)

「自分」の壁 (新潮新書)

相変わらずの養老節というか、おじいさんのお説教を聞いているような
感じがする。いや、お説教というと嫌な言い方だな。
ご隠居さんのひとりごと、とでも言えばいいのか。


自分と世間の折り合いがどうもよくないと思う人が、どうしたらしのいで
いけるか、という話が中心になっており、私なんかもその一人だから、
もっと若いときに読んでおけばよかった。


といっても、東大医学部の教授だった人と、普通の人間を比べては
いけない。ところどころで、いや普通の人にはそれは無理です、と
いうような話が出てくる。



ちょっとよく分からない寓話も出てくる。
原発事故が起こったとき、やみくもに逃げるのはいかがなものか、という話を
してからの記述である。(p192)

 もちろん、どういう行動をするのかは自由ですし、責めるつもりはありません。
その時、思い出したのが、「テヘランの死神」という寓話でした。ヴィクトール・
E・フランクルの『夜と霧』(みすず書房)の中に出てきます(以下、同書をもとに
紹介します)。


 裕福で力のあるペルシャ人が、召使をしたがえて歩いていると、急に召使が
こんなことを言い出します。
「今しがた死神とばったり出くわして脅かされました。私に一番足の速い馬を
与えてください。それに乗ってテヘランまで逃げていこうと思います。今日の
夕方までにテヘランにたどりつきたいのです」


 主人が言われた通りに馬を与えると、召使はそれに乗って去っていきました。
その後、主人が館に入ろうとすると、死神に会ってしまいます。そこで主人が、
「なぜ私の召使を驚かせたのだ、怖がらせたのだ」
と言うと、死神はこう答えました。
「驚かせてもいないし、怖がらせてもいない。驚いたのはこっちだ。あの男に、
ここで会うなんて。やつとは今夜、テヘランで会うことになっているのに」


 これは寓話なので、いろんな解釈が成り立ちます。どう解釈するかは、お任せします。

……どう解釈したらいいんだろう? というより、そもそも意味がよく分からない。
運命は自分で選択できないという話なのだろうか。


なんだか一神教決定論みたいな話になってしまいそうで嫌だな。