近所の人が自分の畑で採れたチンゲンサイを大量にくれた。
直接私にくれたのではなく、親がもらってきたのだが、量が多いので
私にもまわってきたのだ。
そのチンゲンサイは、プロが作ったものではないので、ほとんど葉っぱ
である。しかも虫食いだらけだ。
タダでもらったのでケチをつけてもしょうがないのだが。
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田舎の人は、とにかく大量に何かをくれる。
その量が親切の大きさだ、と言わんばかりだ。
しかし、本当に相手を思いやるのならば、もらって困るような量を
考えもせずに贈ったりしないだろう。
ありがた迷惑に感じるほど贈るのは、単なる自己満足ではないか。
と、さっきまで考えていた。
だが、昔の田舎はネットワークが発達していただろう。
たとえ家族が少なくて消費できなくても、もらった人が、また別の
誰かに贈ればいい、という判断で動いていたのではないだろうか。
誰かが大量に贈ったものの余りが、別の誰かに贈られる。
さらに別の誰かが、また大量にものを贈る。それも別の誰かに回る。
贈答が連鎖していく。
そのグルグルが、回りまわって、いつか自分のところに届く。
経済である。
もし食べきれる量だと、どこかでグルグルが止まってしまう。
あげた人から同じぐらいの量のお返しがあるかもしれないが、それは
大きなグルグルにつながらない。
だから、最初に多すぎるものを贈るのである。
このエネルギーがグルグルを加速させることを、田舎の人は頭の片隅で
分かっていたのではないだろうか。
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つまり、こんなにもらってどーすりゃいいんだよ、と困るのは、誰にも
あげる当てがない、ということで、実はわりと不幸なのではないか。
私は明日もチンゲンサイを炒めて、不幸の味を噛みしめるのである。