その未来はどうなの?

その未来はどうなの? (集英社新書)

その未来はどうなの? (集英社新書)

橋本治は2010年の秋に病気になったそうで、そこからやたら疲れて眠く
なるようになったらしい。無駄に健康な私と代わってあげたいぐらいだ。
そのときからぽつぽつと書いていたのがこの本だということだ。


内容は、わりととりとめもないことから始まって、大事なトピックに
触れつつ、ふわっと着地する、という感じだろうか。
こればかりは読んでいただくしかない。


私が気になったのは、第二章の「ドラマの未来はどうなの?」だった。

 ドラマと言ってもいろいろありますが、ここで「ドラマ」というのは、
演劇とか小説とかマンガとかいう個別のものではなくて、「指針のない
世の中で、人が生きて行くための指針となった物語」のことです。

江戸時代には歌舞伎があったけれど、これは人生の指針にはならなかった。
むしろ「深入りするとロクなことにはならない」ものだった。
ところが明治時代になって、人が自由に生きていいことになると、そこで
初めて「指針」というものが必要になる。それが講談である。

 女流が中心となってしまった現代の講談とは違って、明治・大正・昭和の
戦前に盛んだった講談は、「どんな無茶なことでも、なんとかしようと
思えばなんとかなる」という、とんでもなく前向きな世界観を持った男性
好みのものでした。しかもこれが、ラップなんか問題にならないような
アップテンポで畳みかけて来ますから、「それって無茶なんじゃないか?」
というような疑問は、どこかに吹き飛ばされてしまうのです。

このような世界観が受けたのは、近代化を目指す前向きな願望と一致した
からである。その先には敗戦が待っているのだけれど。


では文学はどうだったのか。

 初め、文学は講談の方をチラ見していました。どうしてかと言うと、
言文一致体の文章を創らなければならない文学は、落語や講談の速記録を
参考にしたからです。文学が講談を参考にしたのはそれだけで、後は別々の
道を行きます。講談は江戸時代由来のものなので、この前近代の精神は明治の
近代になって、「やっていいんならなんでもやっちゃうぜ!」でひたすら
前向きになりますが、近代になって生まれる文学は「自由にしてもいいと
言われたって、どうしたらいいのか分からない。世の中はそう単純じゃない
から、“どんな困難でもなんとかしようと思えばなんとかなる”なんてことは
ありえない!」という苦い認識を前提とするのです。


 講談は挫折を認めません。「挫折」というのは近代的な心理であって、
「勝つか、負けるか」をはっきりさせる講談は、「挫折」などという中途半端な
心理を認めないのです。つまり、「挫折あり」を前提とするのが文学で、「挫折
なし」を当然とするのが講談であり、そこから生まれる大衆小説なのです。


 「挫折」が大衆小説の中に入り込むと「ニヒルな主人公」になります。
アニメやマンガに登場する「ニヒルな口をきく美形キャラ」というのは
この伝統を引いたもので、「挫折」というのは、「前向き」が取り柄で
ある大衆的世界に入り込んだ「文学的色彩」なのです。


ここから、いま「生きる指針となるようなドラマ」はあるのか、という
話に続いていくのだが、それは各自で読んでいただきたい。



私が前に、「氷菓」はどちらかというと純文学寄りのミステリ作品だ、
と書いたのは、ここを読んだからだった。
そして「鬱展開」というのは、挫折を認めない視聴者・読者から出た言葉
ではなかろうか、ということだった。


私は自分の人生が鬱展開を驀進中なので、せめて物語ぐらいはハッピーな
ものを見たいのだけれど、それだけじゃ物足りないな、という贅沢な欲望
もある。
まどか☆マギカ」で感動したのは、そのどちらも満足させてくれたから
ではないかな、と勝手に思っている。



橋本治の本の内容とは離れてしまったけれど、ここだけは最後に引用して
おきたい。(第八章 経済の未来はどうなの? p174)

 日本は、敗北を認めた方がいいと思います。原発は使わないほうがいい
ものだと認めたほうがいいと思います。かつてのように、エネルギーという
ものがいくらでも好き放題に使えるものではないということを認めた方が
いいと思います。産業の発展を野放しにすると「公害」というものを生む
から、そこに制限を設けなければならないと考えて、それでも産業の発展を
可能にした国です。いるのかいらないのか分からないものを作り出し、需要を
刺激することによって経済を成長させることの、無意味を認めるべきだと
思います。