「女に嫌われる女」を嫌う女

男に媚を売る女は、ふつう女から嫌われる。
なぜだろうか? 


おそらく、媚を売る女はそうでない女にとって脅威だからだろう。
具体的には、目をつけたり確保している男を奪われる可能性があるからだ。


男から見れば、可愛いなと思うしぐさも、同族から見れば擬態している姿にしか見えない。
自分が女であるだけに、女の本性をいやというほど知っているから、それを巧みに隠して男に
アピールするなんて許せないに違いない。


じゃあ、自分も擬態すればいいではないか、と思うかもしれないが、生まれつき擬態が苦手な
女もいるだろうし、擬態を身につけるには時間がかかるから、気がついたときには手遅れにな
っている場合もある。


しかし、自分が劣っていることを認めたくないから、擬態が上手い女や、擬態にコロッと騙さ
れる男に怒りの矛先が向かう。
ある意味、哀れな女たちなのである。


それに同族嫌悪ということもある。
媚を売っている姿が、自分の醜い部分を見せつけられているように感じるのだ。
例えば、植民地支配を受けている地域で、宗主国の人間に取り入って旨い汁を吸っている人々
に対して、民族主義の人たちは激しい怒りを抱くだろう。


それと同様に、お前は男に媚を売らなければ生きていけないのかよ、というフェミニスト思考
が根底にあるのかもしれない。


てことは、男に媚を売る女を嫌う空気は、フェミニズムの台頭とパラレルの関係にあるのだろ
うか? 


素人だから分からないけど、江戸時代は遊郭の女しか媚を売るテクニックを持っていなかった
のではないかと思う。落語を聴いていても、庶民の女はコケティッシュなものと無縁だったよ
うな気がするし。


明治時代の小説を読んでいると、教養の高い女性は、むしろ凛とした態度で男に接している。
そういう女は圧倒的に少なかったと思うが、庶民の女はまだ自由に恋愛なんかできなかったか
ら、男に媚を売る必要もなかったのかもしれない。


大正時代以降に恋愛主義が広まっていったので、ここから媚を売る女がどんどん出現していっ
たのかと思われる。
ただ、媚を売るといっても、男女双方にテクニックを授受する技量が育っていなかったために、
女の方でも同族の嫌悪感は目立たなかったのではないか。


私が注目したいのは「ぶりっ子」という言葉である。
この言葉は、松田聖子レコード大賞か何かを受賞したとき、泣いているふりをしていたにも
かかわらず涙が出ていなかったことに対するバッシングに端を発していたと記憶する。


それまで漠然と感じられていたものに言葉が与えられたのだろう、「ぶりっ子」は瞬く間に浸
透していった。
そして女たちは、「ぶりっ子」という言葉で、男に媚を売る派と媚を売らない派を線引きして
いったように思う。
そして、媚を売らない派はナチュラルで格好よいという印象に、媚を売る派はバッシングやい
じめの対象になったのではないだろうか。


その、媚を売る派にも二種類あって、擬態して媚を売っている女=男の前と女の前では態度が
違う女と、普通にしていても媚を売っているように見える女=男の前と女の前で態度が変わら
ない女がいる。
川原泉の「笑う大天使」では、後者を本物のお嬢様と呼んで尊敬すらしている。


いくらバッシングの対象になるからといって、何もアピールしなければ男をゲットできない。
現に女性誌では男に媚びるためのファッションを提示し続けている。
「モテ服」ってそういうことでしょう。


そうすると、女のモテ/非モテは、男をコロッと騙せるテクニックにかかっているということに
なるのかなぁ? ぶりっ子を嫌う女は、ちゃんと狙った男をゲットできているのだろうか。
私が心配することではないのだけど‥‥


あと、若い女がイマイチ団結できないのは、常に女どうしで、こいつは擬態しているかどうかを
チェックしあっているからではないかと思う。
フェミニズムはぶりっ子を叩いたけど、そのことで自分の首を絞めてしまったのでは? 


本文と写真はまったく関係ありません

ル ’ー’リ<ぶりっ子じゃないですぅ〜♪
从o゚ー゚从<‥‥‥‥