なぜジャニーさんはタレントをYOUと呼ぶのか? 

ジャニーズ事務所の社長は、自分のところのタレントを YOU (ユー)と呼ぶ。
なぜだろうか? 


きのう読み終わった橋本治の「いま私たちが考えるべきこと」に、こんなことが書いてあった。

 ちょっとした国語辞典を引いて、「我」とか「己(おのれ)」とか「自分」という一人称をあらわす
言葉への説明を見れば分かることだが、日本語には「一人称と二人称の区別」がない。「我」は、
「自分をさす言葉」であると同時に、「二人称の他人をさす言葉」でもあって、「己」も「自分」も
同じなのである。「自分」などという、近代になって一般的になったとしか思えない言葉でさえ、
「自分=他人」の構造になっているというのにはちょっとびっくりするが、しかし、そうなのである。


 だから、関西系のお笑いタレントは、平気で「自分、今なに言うた?」と、目の前の他人に言う
のである。これが、「私は今なにを言ったか?」の疑問ではないこと、言うまでもない。同様に、
「我ェ、しばくぞ」も、「お前を殴るぞ」であって、「私を殴るぞ」でも「私が殴るぞ」でもない。

 一人称と二人称を同じ言葉ですませてしまう言葉を使う日本人ではあるが、しかしだからといって、
「日本人は自と他の区別をつけない」というわけではない。日本語の中には、ちゃんと「自他の区別」
がある。だから、「自分、今なに言うた?」を言う人間だって、「自分、知っとるやろ? こないだ
会うた山田さんな」という日本語を使うのである。つまり、一人称と二人称の区別を曖昧にする‐‐
平気で放棄する日本人は、三人称の形でなら、明白に「自他の区別」をつけるのである。だから、
「山田さん」という第三者は存在するのである。


 これはどういうことか? 「目の前にいる他人なら、“一人称=二人称”の一体化は図れるが、目
の前にいない他人とは一体化が図れない」ということでしかないだろう。なにしろ、他人に「なァ、
自分」と呼びかけてしまう人は、平気で初対面の相手にも、この「自=他」を適用してしまうからで
ある。「自分=他人」が親しさの結果なら、こんなことは起こらない。起こるのなら、「目の前にいる
他人は“自分とイコール”だが、目の前にいない他人にはそれが起こらない」ということがあっての
ことである。だから、「あいつ」という不思議な三人称もあるのだろうな、と私は勝手に思うのであ
る。


ここで話はジャニー喜多川の使う二人称「YOU」になる。
彼は日系二世だそうだから、英語と日本語のバイリンガルなのだろう。
しかし、ジャニー喜多川の「YOU」は英語の二人称ではないような気がするのだ。
むしろ、日本語の新しい二人称「ユー」とでも名づけるべきものではないかと。


というのも、ジャニー喜多川は、自分が抱えているタレントと身も心も一体化したいと願っている人
だからである。
そこには日本語的な「自分=他人」のメンタリティが濃厚にある。


もし仮に、ジャニー喜多川がタレントに対して「きみ」とか「○○クン」と呼ぶとしたら、そこには
明確な上下の立場が生まれる。
そして社長と所属タレントという関係ができると、その間は容易には縮まらない。


ジャニー喜多川は、できることなら自分も美少年になって、美少年たちの中に飛び込みたい人である。
である、と断言してしまうのもアレだが、たぶんそうだ。
ハダカの美少年たちにもみくちゃにされるのがジャニー喜多川の夢なのだ(←「なのだ」って‥‥)。


だから、あえて上下関係が意識されない「ユー」という二人称を使い、自分と他人を一体化させてい
るのだと思う。
もちろん、それはプライベートな場面だけだろうけど。


こういう同じ目線を意識するのは、少年愛だけなのかもしれない。
男が少女を愛するときは、意識的にせよ無意識的にせよ、支配/被支配の関係性を求めているだろう
し、逆も考えられるが、自分が美少女と同じ目線になりたいと願う人は少数派だろう。


永遠の少年という言葉は、ジャニー喜多川のためにあるようなものである。


本文と写真はまったく関係ありません

美少女と一体化したいゲイの一例