匿名の死

新聞の地方欄にある死亡広告を見る。
自分の年齢に近い人が死んでいると、喪主を確認する。
たいていは夫や妻になっているが、たまに父親だったり兄だったりすることがある。
たぶん、そういう人は私と同じく寂しい人生だったんだろうな、と勝手に想像する。


何かの本で読んだか、ドラマだったかにこういう話があった。
シベリアの針葉樹林で一本の木が雪の重みで倒れたとする。
半径数百キロには誰もいない。
だから、その木が倒れた音は誰も聴いていない。
では、その木は本当に倒れたことになるのだろうか? 


人間が知覚しなければ、現象は存在するか否か、という話だと思うが、私にはよく分からない。


例えば、いまこれを書いているとき、米国のクリーブランドで雑貨店を営むジョン・デイヴィス
という黒人が射殺されたとする。
当然のことながら、私はそれを知らない。知るすべもない。
では、私にとってジョン・デイヴィスは存在しているのか? 
逆に、ジョン・デイヴィスから見て私は存在していたのか? 


全能の神じゃあるまいし、この世のあらゆる人の存在を知覚できるわけがない。
私はただ漠然と、世界中にはいろんな人がいるんだろうなぁ、とイメージするだけである。
だから、人が何人死のうが、知らなければ心が痛むことはない。
(死んだことさえ知らないのだから)


さらに言うならば、忘れてしまった人が死んでも何のダメージもない。
私は小学校や中学校の同級生の顔や名前を、ほぼ忘れている。
卒業してから一度も会ったこともないので、いまどうしているのか、生きているのか死んでいる
のかも分からない。


もし、小学校の同級生の一人が、私の知らないときに亡くなったとしよう。
私は一生、そのことについて知らないまま死んだとしよう。
同級生はどの時点で死んだことになるのだろうか? 
私の記憶から失われた時点で、すでに彼/彼女は死んでいるのではないだろうか? 
だって、顔や名前が浮かんでこないんだもの。


てことは、知覚は存在と深く関わっており、記憶がどんどん失われていくということは、知ってい
る人がどんどん亡くなっていくのと同じことではないか、と思う。


ドラえもんの有名な話に「独裁スイッチ」というのがあるが、あれは消した人間が最初からいなく
なっていることになる、という設定だった。
つまり誰にも知られていないということは、存在しないことなのだと。


私が必死になって誰も読まないブログを書いているのは、忘れないでくれー! と悲鳴をあげてい
るのと同じなのかもしれない。


本文と写真はまったく関係ありません

日付は去年のものです