紅白を見つつ録画していたので、最初からちゃんと見たら深夜になってしまった。
3時間15分という尺は、ちょっと長かったような気もするけど、爆笑させてもらった。
特に板尾の葬式で棺桶の上で踊るやつと、西川史子が顔色ひとつ変えずにパイをぶつけるやつは
すごかったなぁ。
出演者やスタッフの体力は、限界までいったのではなかろうか。
この「笑ってはいけない」シリーズはなぜこんなに面白いのか?
私は、“中学生の修学旅行の夜”だからだと思う。
このときに笑いを、大の大人が予算をかけてやっているのが、「笑ってはいけない」シリーズ
だろう。
つまり、なぜ「笑ってはいけない」という拘束があるかというと、生徒(芸人)とそれを監視する
教師(スタッフ)がいるからである。
監視する教師の権限は絶対なので、どんな理不尽な罰をくらっても生徒は従わなければならない。
そういう抑圧的なルールがあるから、見ている我々はおかしくてしょうがないのだ。
そして人間は、そのような枠にはめられると、どうしても逸脱したくなる生き物だから、フリー
な状況よりもよけいに笑いが濃縮される構造になっている。
もちろん、監視する側(スタッフ)は次々と罠をしかけて芸人を笑うように追い詰めていくが、
いわばエンジン内で気化された燃料を圧縮して、爆発するのを待っているのと同じだ。
同じようなことを何の制約もないスタジオでやったとしても、それほど大きな笑いにはならない
だろう。
そういう構造を発見すると、実はとんねるずの「細かすぎて伝わらないモノマネ選手権」も同じ
であることが分かる。
床を開いて芸人を落とすスイッチに象徴されるように、モノマネをする芸人と審査するとんねるず
たちでは、明らかに審査するとんねるず側に権限がある。
床スイッチがないと、あれほど爆発的な笑いは起きないだろう。
そういえば、ドリフターズのいかりや長介も萩本欽一も、笑いに関しては絶対的な権力で場を支配
していた。そういう強固なフレームと、それを破壊する何かがないと、時代を画する笑いは生まれ
ないのかもしれない。
すると「ひょうきん族」はどうだったんだろう、という疑問がわく。
ビートたけし、明石家さんま、島田紳助らの誰か一人だけが仕切っていたわけではない。
あの番組は横沢彪というプロデューサーがいたから成り立っていたのかしら。
その系譜に「めちゃイケ」があると思うけど、個人的にはナイナイを見ると、いまひとつ笑いの
密度が薄いように感じるのは、そのせいかも。
怖い人が次世代の笑いを作っていくという説が正しいとしよう。
今の若手芸人で、そういうオーラを発している人はいるだろうか?
新しい冠番組がゴールデンで生まれないのは、怖いオーラの芸人がくすぶっているからかもしれない。
本文と写真はまったく関係ありません
州*‘ ー‘リ<絶対に笑ってはいけない梨沙子24時