*[本]街道をゆく17 島原半島 天草の諸道

島原の乱がなぜ起こったのか、当時の諸外国との関係や
内政について詳述した一冊だった。
なので読後感は重い。


司馬遼太郎が怒りを込めて記述するのが、島原半島の領主
松倉重政と嫡男の勝家である。
もともと少ない石高を過大に幕府に申告し、領民から搾りに
搾りぬいた。

 牛馬が道を通っても税をとり、畳を敷けば税をとり、子が
うまれれば人頭税をとり、死者を葬る穴を掘れば穴税までとった。
真偽はわからないが、茄子一本の実の数まで役人がやってきて
かぞえ、何個か税としてもって行ったという。
 領民として一揆に立ちあがるのが、当然であった。が、
生存権をまもるという段階は通りすぎていて、もはや早く
この世を去るために結束するという絶望的なところに
追い込まれていた。島原の乱の民衆蜂起の動因は、切支丹の
要素は第二次的であったといっていい。
(p27-28)

ここまで追い詰められた反乱は、結局幕府の援軍によって
鎮圧され、籠城していた領民は一人を除いて皆殺しにされた。


島原の乱のあと、領民がいなくなったので、幕府直轄地にいる
農民が割り当てられて入植した。
そのとき小豆島から移住してきた人が素麺の作り方を教えて、
いまの島原素麺ができたという。



松倉重政や勝家は、領民が餓死しそうになるまで課税した。
もし一揆が起こらず、みな死んでしまったら、その後の
税金はどうやって搾取するつもりだったのだろう? 
ちょっと考えればわかりそうなものだが、このあたりの
思考法は現代のブラック企業の経営者と変わらない。


島原の乱が集結して、領主の松倉勝家は責任を問われ、
江戸で斬首されたそうだ。大名が切腹ではなく斬首された
のは、江戸時代に彼ひとりだったという。
死ぬときにどんなことを思っていたのだろうか。
たぶん悪いことをしたとはつゆほども考えていなかった
のではなかろうか。