カールじいさんの空飛ぶ家

邦題で損をしている。オリジナルのタイトルは単純に“UP”だ。


ピクサー印の映画は毎回見ているのだが、去年の「ウォーリー」だけは
見損ねてしまった。小4の生徒が、あまりにつまらなくて寝てしまった、
と言ったからだ。


この映画のポスターに、『回想シーンだけで満足してしまった』という
宮崎駿のコメントが書いてあったが、まさにその通りだった。
冒頭の10分ぐらいに、カールじいさんの少年時代から妻を失うまでの物
語が描かれるのだが、不覚にもそこでポロッと涙を落してしまった。


実際に冒険に出てからは、まあこんなもんか、というお話だった。
なぜハリウッド映画では、子供が無能な存在なのか、と思ってしまう。
おそらく、成熟することを強く求める文化だからなのだろう。


それにしても、カールじいさんについていく少年が東洋系なのは、マー
ケティングを意識したからだろうか。声をあてているのも日系の米国人
のようだが。


                  *


私が深く感動した冒頭の回想シーンは、幼馴染の神話とでも呼ぶべきス
トーリーだった。


洋の東西を問わず、内向的な少年は幼馴染を夢想する。
自分からは声をかけられない少女が、無条件で自分を保護してくれる。
その感情はいつしか恋愛に変わり、やがて結ばれるというものだ。


日本では少年マンガでいくらでも語られてきたパターンである。
米国でも映画でそういう設定がたくさんあるだろう。


だが、実際にそういうことがあるかというと、かなりレアなのではない
だろうか? 皆さんの周りに、そういうカップルはいますか? 
たぶん「遅刻、遅刻ー!」と言いながらパンを咥えて走ってくる女の子
と同じぐらい珍しいはずだ。


では、この幼馴染というのは何かといえば、フロイト先生なら即座に
「それは母親の代わりさ」
と答えるだろう。


映画の最後に、カールじいさんは思い出の家財道具を捨ててしまい、
最終的には家そのものも失う。
彼はようやくそこで成熟したのかもしれない。
そのご褒美として、孫のような少年と過ごす日々を得られたのだろう。


そんな精神分析的な解釈をしてしまったが、私としてはカールじいさん
が妻の“私の冒険の本”を大事にとっておいたことが一番よかったと
思う。


西洋には位牌というものがないので(たぶん)、それに代わるものが
奥さんのスクラップ帳だったのだろう。


冒頭の回想シーンがあまりに素晴らしかったので、ショートケーキの
上にのっているイチゴを最初に食べてしまい、あとはケーキを食べて
いるような感じの作品だった。