唐茄子屋政談

古今亭志ん生 名演大全集 26 唐茄子屋政談(上/下)/へっつい幽霊

古今亭志ん生 名演大全集 26 唐茄子屋政談(上/下)/へっつい幽霊

真夏に聴く落語のひとつ「唐茄子屋政談」である。


吉原に通いつめて勘当された若旦那が、「お天道様と米の飯はついてまわる」と啖呵をきって
家を飛び出したものの、みじめな境遇に落ちぶれる。
川に身投げして死のうと思ったところを叔父さんに助けられ、唐茄子(カボチャ)売りになる。
炎天下、天秤棒をかついで唐茄子を売り歩き、親切な人のおかげでどんどん売れていく。


ここからバージョンが二つあって、若旦那が吉原の方角を見ながら楽しかった日々を思い出し
て真人間になるところで終わるものと、貧乏長屋で武家だったおかみさんを助けるものがある。
後者は長い噺なので、あまりやらないことが多い。


政談というぐらいだから、最後には奉行所が出てきて若旦那に褒美をとらせるのだが、どうも
そこまでもっていくのに急ぎすぎる感じがある。
あまり笑いをとれるところではないので、さっさと済ませているのだろうか。


落語の若旦那というのは、どうもロクな人はいないみたいだが、周りの人は親切である。
特に若旦那の叔父さんは、わざわざ唐茄子を仕入れてくれて、ちゃんと働くことを教えてくれる。
こういう筋の通ったことをしてくれる人は、なかなかいないものだ。


そして、フラフラしながら街を歩いている若旦那の唐茄子をどんどんさばいてくれる親切な町人
もありがたい。渡る世間に鬼はなし、という台詞が出てくるが、このような共同体はいつごろ失
われてしまったのだろう。


映画「三丁目の夕日」には、まだ落語のような助け合いのこころがあったように描かれている。
私たちの郷愁を誘うのは、このような失われてしまった共同体幻想かもしれない。


私が聴いたのは、古今亭志ん生が昭和28年ごろに録音したもので、晩年のものに比べて声のトー
ンが少し高く、なぜだかドライな感じがする。
まだ戦後間もない頃で、志ん生も命からがら満州から帰ってきた後だからだろうか、食うや食わ
ずの若旦那の描写が真に迫っている。


志ん生も自伝の中で、食うのに困って納豆売りをしたことがあるらしいが、往来でまったく声が
出せなかった、と述べている。高座ではいくらでも大声が出るのに、どういうわけか物売りの調
子で叫ぶことができない。


私も経験があるが、恥ずかしくて舌が口の中でひっついて動かなくなるのですね。
そういえば、いまどき街中で大声でものを売っている人はあまり見かけない。
録音したものを流すか、無言でチラシやティッシュを配るぐらいである。


商売から肉声がなくなっていくのは、洗練されているのか、バイタリティが失われているのか、ど
っちなんだろうか。


本文と写真はまったく関係ありません

∬´▽`)<カボチャのことだったら何時間でも語れますね