ありがとう、阿久悠さん

NHKの追悼番組「ありがとう、阿久悠さん」を見た。
私は歌謡曲の作詞家にあまり興味がなく、もっぱら作曲家の方に関心があった。
なので、メロディを鼻歌で唄うことはあっても、正確な歌詞を憶えることはまずなかった。


ところがある日、太田裕美の「木綿のハンカチーフ」を聴いたとき、物語のような歌詞に驚き、
松本隆という作詞家の名前を知った。
作詞家というのはすげぇな、と思ったのはこれが最初である。なんたる感受性の鈍さよ。


阿久悠の名前はさすがに私も知っていて、70年代のヒット曲にはたいてい彼の名前がクレジット
されていた。ピンクレディーの一連の作品は、当時まだ子供だった私にも「ヘンな歌」と思うく
らいインパクトがあり、オッサンになってから歌詞を見ると、よくこんな詞が書けたものだと思
う。


私には日本の歌謡曲の歴史を俯瞰する力はないのだが、追悼番組を見ていると、阿久悠の全盛期
は60年代後半から70年代いっぱいだったのではないかと思われる。
ライバルのなかにし礼も、おそらく同時期がピークだったのではあるまいか。


その後、80年代に松田聖子の時代がやってきて、松本隆が大活躍する。その後、秋元康が出てき
て、小室哲哉つんく♂が登場してきたのかな? 
もっとも、小室哲哉つんく♂は作詞家・作曲家というよりは、プロデューサーという立場の人
なので、作詞だけをやってきた人で一時代を築いたのは松本隆秋元康が最後なのかもしれない。


一方で、歌謡曲が主流だった時代から、シンガーソングライターやバンドの時代にシフトしたこ
とも、専業の作詞家があまり出てこなくなった一因ではなかろうか。
歌手が自分の曲を自分で作詞するようになったことが、芸能界と私たちの壁を溶かしていき、良
くも悪くも“等身大”のものになっていったような気がする。


だって、70年代に唄っていた人の衣裳を見ると、すんごいギラギラしているというか、完全にあ
ちらの世界とこちらの世界が分かれており、作詞家が立ち上げたフィクションがちゃんと成立す
る空間があったことが分かるのだ。
(その残滓は今もNHKの「紅白歌合戦」に漂っており、いまの私たちが見ていて、つい失笑して
しまう空気の一因となっていると思う)


もうひとつ空間的なことをいうと、79年に発売されたウォークマンが80年代半ばには完全に生活
に定着しており、みんなが同じ歌をなんとなく聴いている、ということがなくなってしまった。
ポピュラー音楽が世代や趣味で細分化され、音楽産業自体も大きく変化しつつ現在に至っている。
CDも売れなくなってきてるし。


個人的には、歌謡曲というジャンルを復活させようとがんばっているのが、つんく♂なのではな
いかと思っている。
むしろ、受け手の私たちが、多様な音楽を食わず嫌いしていたり、すぐに元ネタ探しをしたりし
て、音楽そのものを痩せさせているのではなかろうか、と。


本文と写真はまったく関係ありません

ま、単なる私のハロプロ贔屓にすぎないのかもしれませんけどね