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コーエン兄弟のコメディ映画だが、日本人の私はそれほど笑えなかった。
すごく分かりやすいギャグが多かったけど。
コンビニ強盗の常習犯が、刑務所で写真撮影をしていた女性警官に惚れて結婚し、真人間にな
って子供を作ろうとする。ところが女は不妊症で、絶望した夫婦は、ニュース知った五つ子の
一人を誘拐する。そこに夫の知り合いが2人脱獄してきて、誘拐した子供を連れて行ってしま
う。
それを追いかける夫婦と、謎の男がからんで‥‥というストーリーだ。
(謎の男は「マッドマックス」に出てくる悪役のような感じ)
情けない夫を演じるのは、まだマッチョな役をやる前のニコラス・ケイジで、元警官の妻はホ
リー・ハンター。この組み合わせが抜群によかった。
個人的には、ニコラス・ケイジはこの映画や「リービング・ラスベガス」のような弱い男性を
演じるのがうまいと思う。
ただ赤ちゃんを争奪するだけなら単なるB級映画なのだが、ストーリーの中に強烈な違和感を
持って登場する謎の男のおかげで、いろいろと深読みができてしまう。
私なら、こないだ読んだ「東京ファイティングキッズ」で内田樹が開陳した、米国人の母性の
あり方にかこつけて、こういう話を展開したい。
映画の中でニコラス・ケイジはコンビニ強盗の常習犯のくせに、全くマッチョではない。
暴力的になるのは、スワッピングを持ちかけてきた男を殴る場面ぐらいで、むしろ妻のホリー・
ハンターの方が男性的である。
これは脱獄してきた2人の男もそうで、赤ちゃんを目の前にすると母性愛に目覚めたようにな
る。
では、米国の伝統的な男性像はどこに登場するかというと、すべて謎の男に集約されているの
である。彼はヒゲ面でタバコをふかし、マフラーから炎が出る巨大なバイクを乗り回し、全身
を銃や手榴弾で武装している、暴力的な男として描かれる。
Wikipedia では、このマッチョな男はニコラス・ケイジの分身だと書いてあった。
もともとは同じ男の中に存在するものが、謎の男のキャラクターと、ニコラス・ケイジのキャ
ラクターに分かれている、という。
たしかに映画の中では、謎の男とニコラス・ケイジは同じタトゥーをしていたり、オムツと赤
ちゃんを道路からピックアップするシーンがそっくりだったりする。
このような象徴主義は、コーエン兄弟の映画でよく出てくるそうだが、私は分身説をとらない。
というのも、ニコラス・ケイジや2人の脱獄囚は、精神的には子供だからである。
ここにホリー・ハンターを加えてもいい。彼らはどうやって子育てしたらいいのか全く分から
ず、出生届けや予防接種についても無知である。
だから、彼らは赤ん坊を連れていくとき、必ず“スポック博士の育児書”も持っていく。
(このマニュアル主義が、私には伝統的知性の欠落という米国の病理に見える)
映画の終盤で、ニコラス・ケイジは謎の男と戦い、なんとか勝ちを拾う。
この映画は、子供であるニコラス・ケイジが、暴力的な男=父親を倒して大人に成長する物語
のように見える。
そして、米国の母性というのは、そのような暴力的なものを破壊しなければ守られないのでは
ないのか、とも思える。
内田樹は、米国の母性が「ゲイ」と「じいや」に担われていた、と言っていた。
「赤ちゃん泥棒」のニコラス・ケイジはゲイではないが、妻との間に子供ができないという設
定や、繊細なハートの持ち主である描写からは、十分に母性を担うキャラクターであるように
見える。
象徴主義的に言うならば、オムツが欲しくてコンビニ強盗をしたとき、彼の銃に弾丸は装填さ
れていなかったことからも、男性性の一部が去勢されていたように見えるのである。
今から20年前に公開された作品だが、米国のマッチョ主義はあまり変化していないのかもしれ
ない。