- 作者: 橋本治
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2007/03
- メディア: 文庫
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橋本治は、どんな読者を想定して本を書いているんだろうか。
本人としては、自分の考えたいことを考えて、それを本にしているにすぎないから、読みたい
人が勝手に読めば? と思っているかもしれない。
だが、それにしては教育的すぎるのである。
自分がよく分からないことを自分で考えてアウトプットする。
その過程と結論が、なんというか、いちいち親切に見える。
かといって、その親切さは、何か答が書いてあるわけではなく、俺はこう考えてこういう結論
が出た。君たちは君たちで考えて、自分で結論を出しなさい、というものである。
テーマはいろいろあるけど、橋本治は一貫してこういう態度だったように思える。
私がいい歳をして、まだ橋本治の読者なのは、自分で考える訓練が足りないからであろう。
と同時に、私のような読者がいるということは、橋本治の妙な若さのせいでもある。
来年には還暦になるというのに、老いたところを全く感じさせないのが不思議だ。
さて、この本には「前近代」と「近代」がごっちゃになっているのを整理し、自分と他人との
関係が調和するように、自分で考えてみましょう、と書いてある。
なんのこっちゃ、と思うだろうが、読めば分かる。
実は、私は「読めば分かる」とあっさり書いたけど、半分ぐらいはよく分からないまま読み進
んでしまった。特に、最初の方の「義侠心による恋愛」はさっぱりだった。
ただ、
「自分の不幸」は、往々にして他人によって発見される。
という言葉は非常によくわかった。
本人が不幸だと思ってなければ、それほど苦痛でないこともあるのだ。
後半の、個性と教育の話は面白かった。
教育は一般性を求めるもので、個性はその一般性に届かず破綻した存在である。
本当は相互に補完するはずのものが、なぜか学校では同時に教えられている。そりゃ無理があ
るだろ、という話だ。
ちょっと長いが面白いので引用する。
「個性的」という言葉をほめ言葉だと誤解している人間はいくらでもいるが、しかし、
「個性的」にならざるをえなかった人間にすれば、「個性的」という言葉は、「差別に
なる一歩手前で踏み止まった、侮蔑を曖昧にする止揚表現」でしかないのである。
この私なんか、どうしたって「個性的」でしかないのだが、人から「個性的」と言わ
れるたんびに、「どうせオレなんか“一般的”に届いてないよ。一般性から排除された
仲間はずれだよ」と思う。そう思う私は、「“どうせ美人じゃないんでしょ”と思い続け
ざるをえなくなってしまった、“ブス”と言われ続けた女の子」と、同じようなものなの
である。そういう女の子は、突然「君は美人だ」なんて言われたって、絶対素直に喜ば
ない。「誰にでもそう言うんでしょ?」とか、「そういうウラにはなにかある」と思う。
私だって同じである。「個性的」と言われることに慣れてしまった人間は、「どうせ
自分には正当な位置づけなんかないんだ」と思って、「世間のほめ言葉」には無反応に
なってしまうのである。
こうした疎外感は、わりと多くの人が抱いているものなのかもしれない。
橋本治は、「私」と「私たち」が切れているという。
「私たち」とは「私+他人」であるともいう。
なので、「答」は自分と他人とで作り上げるものである、という。
なぜか唐突に、私は東浩紀の「大きな物語消費」から「データベース消費」へ向かう、と
いう話を思い出す。
「前近代=大きな物語」「近代=データベース」と脳内でリンクしてしまった。
間違っているかもしれないが、ついそう思ったのである。
もはや個々の物語は、「私」と「データベース」の間で瞬間的に作り続けていくしかない
のかもしれん、と思う。
そこに「他人」が介在する余地はあるのだろうか?