母校が春のセンバツ大会に21世紀枠から出場することが決まった。
コンビニのレジの横に愛媛新聞の号外が無料で配られており、そこ
までの出来事か、とちょっと驚いた。
甲子園大会は批判的に眺めているのだが、自分の出身校が出られると
分かると嬉しくなってしまう。
この自己矛盾は何なのだろう。
それは自分と何かを同じカテゴリーに含めてしまう心理にあると思う。
私の場合は、同じ高校という枠でくくって、私自身は何の努力もして
いないのに、甲子園大会に出場する喜びを分かち合っているのだ。
で、カテゴリーは何でもよくて、同じ誕生日とか同じ市町村出身とか、
同じ国という広い枠でも用いられる。
ノーベル賞で日本人が受賞したときなどは、同じ日本人というだけで
嬉しくなるのだ。
こういう連帯意識は、国を超えたものでも可能で、イスラム教やキリ
スト教などで発揮される。
本当は無関係の人間が助け合う場面もあるし、別のカテゴリーと戦う
口実に使われることもある。
フランス革命で謳われた自由・平等・博愛の博愛と翻訳されたものが
それに当たるだろうが、本来は同胞愛とでも訳すべきものだろう。
英語だとフラタニティだが、人類というたったひとつのカテゴリーに
使われるときは美しいが、それ以下の小さいカテゴリーに分断される
と、一瞬で対立を煽るものになるのではないか。
でも、こういう小さなカテゴリーから自由になるのは難しい。
戦争がなくならないわけである。