落語と私

落語と私 (文春文庫)

落語と私 (文春文庫)

桂米朝は、私がものごころついたときから、すでに巨匠だった。
落語を意識的に聴き始めたのが遅かったので、この人の偉大さを知るのは二十歳を超えてから
だったが、しみじみ同時代に生きていてよかったと思う(漱石が三代目柳家小さんについて
語ったのをパクってみた)。


テープやビデオでは何回も聴いたことがあるが、生の高座を見たのは一度きりである。
5年ぐらい前、松山に一門がやってきたとき駆けつけたが、さすがに寄る年波は隠せず、枯れた
芸風になっていた。
それでも、あの米朝が目の前で落語をしている、と思うと感動しきりだった。


東京では、関西の芸人を下品だと嫌う傾向があるが、桂米朝の落語を聴けば偏見だということが
分かるだろう。なにしろ人間国宝だし。


米朝のまくらで憶えているのは、新聞の一面に米朝と大きく書いてあるので、自分が何かしたの
だろうか、と驚いたら、アメリカと北朝鮮のことだった、というやつ。


もうひとつは、真冬に田舎の宿屋に泊まった男が、あまりに寒いので酒を飲んで暖まって寝てし
まう。尿意をおぼえて起きて、外にある便所に行こうとするが、戸が寒さで凍ってしまいどうし
ても開かない。
我慢の限界に近づいたとき、自分の小便で氷を溶かしたら外に出られると思いつき、じゃーっと
やって、やれうれしやと表に出た。
外に出てみて、はて何をしに外へ出たかったんだっけ、という下げで笑ってしまった。
(私の文章では面白くないかもしれないが、米朝が喋ると迫真の演技で男の尿意が伝わるの
である)


上のまくらは下ネタといえば下ネタなのだが、ちっとも下品にならないのが米朝の品格だろう。
一流の料亭の出汁のように、あっさりしているのに深い味わいがある。料亭なんて行ったことない
けど。


「落語と私」という本は、もともと中学生から高校生向けに書かれたらしい。
非常に平易な文章だが、内容はきっちりしている。落語について最初に読むんだったら、まずこの
本は外せないだろう。


初版は30年前、文庫になったのが20年前だが、初心者向けでこれを超えるテキストはないのではな
かろうか。近年、ちょっとした落語ブームがあったが、若い人は芸の本筋をピシリと押さえてある
本書をまず読んでいただきたいと思う。


古典落語は、意外なところに忍び込んでいるもので、「ドラえもん」にもふんだんに使われている。
たとえば、ジャイアンのリサイタルは「寝床」そのものだし、スネ夫がコーラを飲んで酔っ払い、
ジャイアンに説教する話があるが、これなどは「らくだ」である。
恐らく、藤子・F・不二雄にとっては、落語は基礎教養の一つだったのだろう。


いつから、このような庶民の教養というべきものが断絶したのか分からないが、文科省も道徳を教
科にしようとせず、子供に落語を聴かせればいいのに、と思う。


ただ、米朝は最後に自らをこう戒めている。

 芸人はどんなにえらくなっても、つまりは遊民(何の仕事もしないで暮らしている人)なのです。
世の中の余裕‐‐‐おあまりで生きているものです。ことに、落語というものは、「人を馬鹿にした
芸」なのですから、洒落が生命なのです。


 わたしがむかし、師匠米団治から言われた言葉を最後に記します。
 『芸人は、米一粒、釘一本もよう作らんくせに、酒が良えの悪いのと言うて、好きな芸をやって
一生を送るもんやさかいに、むさぼってはいかん。ねうちは世間がきめてくれる。ただ一生懸命に
芸をみがく以外に、世間へのお返しの途はない。また、芸人になった以上、末路哀れは覚悟の前やで』


芸すらない私は、もはや生きている資格はない。
せめて、米一粒、釘一本も作りたいものだが‥‥


本文と写真はまったく関係ありません

从*^ー^)<えー 江戸には弾き猿なんてぇものがございまして‥‥