真珠の耳飾りの少女

真珠の耳飾りの少女 通常版 [DVD]

真珠の耳飾りの少女 通常版 [DVD]

見逃していた映画をBS2でやっていたので鑑賞した。
フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」という有名な絵にインスパイアされて作られた小説が原作
らしいが、本当に映画のような話があったわけではない。


それより、1660年ごろのオランダの世相や風俗が分かって面白かった。
日本でいうと江戸時代の初期に、すでにオランダではバケツや窓ガラスがあったみたいだ。
映画を作るとき、たぶん綿密に調査したはずだから間違いないと思うが、当時の食べ物や洗濯方法
などが描写されており、興味深かった。


この当時、画家は金持ちがパトロンになって生活を支えていたらしく、フェルメールは才能があり
ながらも、精神的にはあまり自由ではなさそうだった。
寡作な人にもかかわらず(なにしろ現存しているフェルメールの絵は30数点しかない)、せっつか
れるように絵を描かなければならないのは、けっこう苦痛だったに違いない。


映画では、フェルメールとモデルになった少女との間に特別な感情があったように描かれている。
特に、妻の真珠の耳飾りをつけるために、少女の耳にピアス用の穴をあけるシーンは、まあ素直に
考えたら処女喪失の代替だろう。
私が分からないのは、その後でつきあっていた肉屋の息子に身体を許してしまうところだ。
どういう心理だったかは、小説には詳しく書いてあるのだろうか。


監督はこの作品がデビュー作だったらしく、いまいち語りがこなれてなかったが、画面の構図や色が、
いちいち綺麗だった。絵画をそのまま映画にしたような美しさで、これは撮影監督がものすごく苦労
したはずである。
03年の米国のアカデミー撮影賞・美術賞・衣裳デザイン賞にノミネートされているが、全て受賞を逃
しているのが残念だ。


ピーター・グリーナウェイの「数に溺れて」もそうだったような気がするが、ヨーロッパの映画監督
は、絵画をそのままスクリーンに写したい欲望があるのだろうか。
米国の映画監督にはないもののような気がする。




ところで、この映画を見ていると、画家が自前で食っていけるのは、当時も今も難しいことが分かる。
なぜなら、絵は本物とコピーを厳しく分けられているからだ。
人間が本物を作るのに限界がある以上、作品はいくらでも作られるわけではなく、おのずから一点の
値段は高くなる。
美術は今も金持ちがいないと成り立たない世界だ。


一方、音楽は金持ちから大衆のものに、つまりポピュラー音楽になった。
それが巨大な産業になるのは、レコードが普及したからである。
レコードやCDなどは、原盤の音をコピーして作られている。ここでは、本物とコピーはあまり区別され
ていない。最近の mp3 データもそうだ。
コピーを大量に作ることができると、ひとつ当たりの価格は安くなる。貧乏人にも買えるわけである。


もっとも、こんな理屈は偉い人が何十年も前に書いているので、今さらな話だけど、なんで絵は大衆化
しなかったんだろう、と思ったとき、いや大衆化してるじゃん、とひらめいたのだ。


そう、日本のマンガがそれである。
マンガの読者のほとんどは、本物とコピーを区別しない。本物だけを愛好することもなく、そもそもア
ート系の絵とは別のものだと思っている。
コピーは何百万部と印刷され、マンガ家は金持ちになれる。絵の大衆化だ。


だが、ほとんどの人はマンガの生原稿を見たことはあるまい。
上手な人の原稿は、本当にきれいなものである。
週刊少年マンガ誌の再生紙で印刷するのがもったいないほどのクオリティがあるのですよ。


もし、本物の原稿だけが認められ、コピーされたものは認められないとするならば、マンガ家の原稿も
美術館に収蔵されるのだろうか。リキテンスタインの隣あたりに。


美術館でも、名画のコピーが絵はがきとして売られているが、あれはどのくらい人気があるものなのか。
あるいは、同じ大きさのレプリカを買う人は、どのくらいいるのだろう。
複製技術が発達して、一枚1000円のシングルCD並みの価格で売り出せば、買ってくれる人がいるかもし
れない。


ラッセンなどの絵で悪徳絵画商法をしている人も、発想を転換して、思いきり安い値段にしたら、無理
にローンを組ませなくても売れるんじゃなかろうか。
もっとも、そうすると絵の価値がマンガの原稿と同じになってしまうけれど。


本文と写真はまったく関係ありません

フェルメールっぽいりさこ