電車男DX

以前に紹介した、内田樹の「映画の構造分析」を読み終えた。
映画の構造分析
その第3章に「アメリカン・ミソジニー 女性嫌悪の映画史」という文章があり、非常に
面白かった。


それによると、米国では開拓時代に女性が極端に不足していたため、女性は「生活財」という
非情緒的な存在だったらしい。
(非情緒的というのは、相手を選ぶときに、愛情とか人格よりも生活力が優先されるということ
である)

 しかし、フロンティアの「男たちだけの集団」に東部から女が一人やってきて、その希少な
「生活財」が「一人の男の占有物」となり、他のすべての男がそれから「あぶれる」というのは、
集団に思いがけない亀裂を生み出すことになる。「生活財を手に入れた男」と「生活財を手に
入れそびれた男」のあいだに、これまでの男たちの世界の価値観では計量できない差別化が
導き入れられるからである。


 それまでの男たちの世界における「価値のものさし」は単純だった。男たちはさまざまな能力
を、努力の結果、あるいは天賦の才として身につけていた。腕力、胆力、直観力、狩猟の才、
天候を予見する力、動植物についての知識、ものを作る技術、酒量、リテラシーなどなど。


 ところが、女は、それらの「男たち世界での価値基準」とはまったく異なる、男たちには
理解しがたい「ものさし」によって、男たちを差別化し、一人の男をその貴重な性的リソース
の独占的使用者として指名したのである。


そうすると、選ばれなかった男たちは精神的に傷つく。

 そこで人々はある物語を創り出す必要に迫られたのである。物語はそれほど複雑な作りもの
である必要はない。それは次のような物語である。


「女は必ず男の選択を誤って『間違った男』を選ぶ」
「それゆえ女は必ず不幸になる」
「女のために仲間を裏切るべきではない」
「男は男同士でいるのがいちばん幸福だ」


 このような定型的な説話原型をストーリーボードに書くとこんな映画が出来る。


「男たちの集団に一人の女が現れる。彼女は男を『選ぶ』権利を与えられている。男たちは
彼女をめぐって競合する。最終的に一人の男が彼女を獲得する。だが、その男は、彼女を
棄てて、男たちのもとに戻ってくる。女は不幸になり、男たちの共同体は原初の秩序を
回復する。終わり。」


 これが「アメリカン・ミソジニー物語」の定型である。この定型をハリウッド映画は実に
執拗に、強迫的に反復し続けてきたのである。


要するに、イソップ物語の「あの葡萄は酸っぱいに違いない」というキツネと同じ話だ。
そして、このような女性嫌悪は米国特有の奇習だ、と内田樹は言う。
ま、その一方で甘いラブストーリーのハリウッド映画も山ほどあるわけで、米国男性は
みんな潜在的女性嫌悪かどうかは分からないけど。


ここまではマクラである(←長い)


ドラマ「電車男DX完全新作 最後の聖戦」を見た。
内容はさておき、私は描かれている女性像が面白かった。


電車男にとって、エルメスは女神である。彼女は我がままを言わないし、意地悪でもないし、
決して人を傷つけたりはしない。
まるで、二次元キャラのようである。


その女神像からこぼれ落ちた負の部分を集約しているのが、陣釜さんというキャラクターだ。
彼女はニンフォマニアで我がままで意地悪で、外見以外は最悪な女として描かれている。
さらに言うならば、電車男の妹や声優アイドルや社長秘書も、性格の悪い女であった。


これは、オタクから見た女の光と影である。


女たちから決して「選ばれることのない男」=オタクは、女に対して女神のような理想を
抱き、一方で嫌悪する。
最初の方で述べた「アメリカン・ミソジニー」のパターンが、オタクにも現れているとは
言えないだろうか? 


ネットで電車男を応援する大部分の男たちは、モテない男だったはずだ。
彼らは、電車男エルメスの恋愛を見て、自分もそんな恋愛がしたい、と欲望しただろう。
だが、それとは反対に、現実の女なんてロクなもんじゃない、と思う男たちがいたとしても
不思議ではない。


ドラマは、視聴者を感動させるという方向だったために、そういう意見は抑圧されているが、
実は陣釜さんというキャラクターによって、バランスをとっているのである。


米国では、女性嫌悪は映画に現れているが、日本ではどうか。
開拓時代の西部とはいかないまでも、モテ/非モテが顕在化し、男の呪詛の声がウェブ上で
これほど高まっている時代である。


実は、日本ではミソジニーが「ギャルゲー・エロゲー」に現れているのだと思う。
この手のゲームは日本で開発されたものだと思うのだが、どうなのだろうか。
特に調教ものなどのジャンルは、実に日本らしい女性嫌悪ではないかと思うのだが‥‥


そして、多くの人が指摘していることだが、電車男などのオタクの多くは、エロゲー
やっているはずである。
しかし、決してそれは顕在化しない。
あくまでも、エルメスという女神との恋愛が語られていくのみである。


映画版の「電車男」は、米国で「Train Man」として公開されたらしい。
果たして米国のオタクたちは、映画を理解できるのだろうか? 


なお、日本の「選ばれなかった女たち」の怨念は一体どこへ集められているのか、という
謎もあるのだが、それは腐女子という生き方に現れているのかもしれない。怖いなぁ。


本文と写真はまったく関係ありません

从*・ 。.・)<女はふたつの顔を持っているものなの