- 作者:V.E.フランクル
- 発売日: 1985/01/23
- メディア: 単行本
ナチスの強制収容所から生還した人の言葉である。この説得力。
高須クリニックの中の人はこれを全部ウソだと思っているのだろうか?
否定できる根拠は何なのだろう。
囚人は考えられない程の劣悪な栄養不足に悩まされねばならなかった
から、当然のことながら収容所における「低下した」精神生活の原始的
衝動性のうちでは食欲が中心になった。囚人の一隊がもし労働場に集って、
しかも看視の目がゆるんでいるときにはすぐ彼等は食べ物について語り
始めるのであった。たとえばすぐ一人が彼の傍の穴の中で働いている
仲間に自分の好物を知らせ始めるのであった。すると彼等は料理の
仕方を交換し、いつかは故郷に帰り自由の身になって互いに再開する
日のメニューを一緒に作り始めるのであった。そしてこれらすべてを
想像することは、もはやきりがなくなるのであった。そしてそれは遂に、
ひそかな秘密な暗号-「見張りが来たぞ」-が穴の中に伝わってくる
まで続くのであった。私自身は、この絶え間ない殆んど強迫観念じみた
食物に関する会話(収容所ではそれを「胃のオナニー」と呼んでいる)を
憂うべきものだと思っていた。(p112)
これは日本の刑務所でも同じようなことが行われていて、たしか
「極道めし」とか「刑務所の中」というマンガにもなっていた。
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不謹慎だが、強制収容所の経済的な面を考えてみたい。
最初に老人や子供、病弱な男は選別されて殺される。
残った健康な男や若い女性が劣悪な環境で強制労働させられる。
もし生産性を上げたいのなら、十分な食事と休息を与えた方が
長く働かせられると思うのだが、実態はほぼ飲まず食わずで
不衛生なまま放置されている。
なので、体力が尽きると死ぬ。
ということは、ナチスはユダヤ人を働かせて何かを得ようと
しているわけではない。
殺すために働かせているのだ。
ではなぜ最初から全員をガス室送りにしなかったのだろう?
わざわざ建物を作ってわずかながら食事を与えたりするのは
まったく無駄ではないか。
強制労働で得られた儲けがそれらのコストより上回るとしても
わずかだろう。
さらに言えば、専門的な職能に関係なく肉体労働をさせている。
著者のヴィクトール・フランクルはときどき医師としても
働かされていたようだが、塹壕を掘らされたりもしていた。
生産性は皆無である。
つまり、強制収容所はユダヤ人をいじめ抜くための施設であった
ということだろう。よほどのサディストでないと考えつかない。
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サディストといえば、本書でもカポーについて述べられている。
囚人の中から囚人を監視する役割を与えられた人間で、これが
サディストだと最悪の結果を生む。
現代でも、ネトウヨというのは安倍政権のカポーと言えるだろう。
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強制収容所の絶望的な状況でも、待っている人や仕事がある人間は
耐えることができたという。
愛する人のことを思い浮かべることで生きる気力を取り戻すと。
たしかにそうかもしれない。
だとしたら、私が強制収容所に入れられたら、真っ先に音を上げて
死んでしまうと思う。
ヴィクトール・フランクルの強靭な精神力は、ほとんど人間離れして
いるような気がする。私には無理だ。