1Q84

1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)

1Q84 BOOK1〈4月‐6月〉前編 (新潮文庫)

文庫本6巻を読み終えて、なんでこれが爆発的に売れたのかよく分からなかった。
もはや散々語られているだろうから、ここからはただの独り言である。



もしかしたら、村上春樹の小説が嫌いな人は、小説ではなく村上春樹が嫌いなの
ではないか、という気がする。
なんというか、出てきた料理はまあ食べられたけど料理した奴はムカつく、みたいな
イチャモンをつけている感じ。
それは料理だけで判断してくれよ、と作った人は言うだろう。


いや、内容だっておかしいぞ、と理詰めで物語を解析しようとする人もたくさん
いると思う。
文庫本の4巻の最後には「本作品には、一九八四年当時にはなかった語句も使われて
います」とあって、そんな細かいクレームをつける人がいたのか、と作者が気の毒
になった。
現実の1984年の世界じゃないと断っているのだから、別にいいと思うのだが。



ただ、私もこの物語はいろんなものを放り出して終わっているので不満がある。
天吾と青豆は元の世界に戻って愛し合いました。めでたしめでたし。
ではどうにも納得できないのだ。


おそらく、この二人に好感をもった人なら納得するのだろうし、それが村上春樹
良い読者なのだろう。
私はどちらにも感情移入できなかった。むしろ牛河の方が気になったぐらいだ。



まず天吾は、猫猫先生の影響で、むやみにモテるのがおかしいと思った。
自分を樹木に例えて、枝に次々と鳥が止まっては飛び立つように女がやってきた、
などと書いており、なんだそりゃ、と腹が立った。
ハーレムラノベの主人公でも、もっとじたばたするぞ。


最も腹立たしかったのは、セフレにしていた年上の人妻がリトル・ピープルによって
破壊されてしまったのを夫に電話で聞かされたあとである。

 自分のこととして考えてみよう、と天吾は思った。もし逆の立場に置かれたら、
自分ならいったいどんな風に感じるだろう? つまり妻がいて、小さな子供が二人
いて、ごく普通の穏やかな家庭生活を送っているとする。ところが妻が週に一度ほかの
男と寝ていたことが発覚する。相手は十歳も年下の男だ。関係は一年余り続いている。
仮にそんな立場に置かれたとして、自分ならどのように考えるだろう。どんな感情が
心を支配することになるのだろう? 激しい怒りか、深い失望か、茫漠とした哀しみか、
無感動な冷笑か、現実感覚の喪失か、それとも判別のつかないいくつかの感情の混合物か?


 どれだけ考えてみても、そこで自分が抱くであろう感情を、天吾はうまく探り当てられ
なかった。(文庫版3巻 p166-167)

こいつは人妻と不倫しても、夫に対して後ろめたい気持ちは微塵も抱かないのだろう。
作者はともかく、川奈天吾は、卵よりも壁の側にいるのだと思う。


また、青豆もダブルスタンダードなビッチであり、好きになれない。
ムラムラしたときはバーでハゲ頭のオヤジを漁っているのに、心は天吾くん一筋だとか、
キャラクターとして分裂しているのではないだろうか。



私が興味深かったのは、牛河というキャラクターである。
初めてスカしてない人物が出てきて、ああ村上春樹はこういう人が本当に嫌いなの
だな、と感じた。


それは、牛河だけがこの小説の中でカップ麺を食べている部分に表現されている。
(もしかしたら、村上春樹の小説でカップ麺を食べたのは牛河だけなのか?)
他の登場人物は、絶対にカップ麺を食べない。自炊をしてカフェ飯のようなものを
作っている。


つまり、村上春樹の小説の世界では、安物を買う人間は生きている価値がないのだ。
実際、牛河は無残に殺されてしまう。
牛河が監視していたアパートの住人たちも、彼の目を通して小馬鹿にしているような
描写があり、村上春樹はくたびれた生活臭をにじませる人間が大嫌いなのであろう。



にもかかわらず、牛河はクラッカーも食べている。
私が想像するクラッカーは、こういうやつである。
ナビスコ プレミアム (6枚×6P)×5個
カップ麺をすすりセブンスターを吸うキャラクターは、絶対にクラッカーなんか
食べないだろう。


なぜ村上春樹の登場人物は、みんなクラッカーを食べるのか? 
みなさん、日常的にクラッカーを食べますか? 
私はもう何年も食べたことがないのだが、私が少数派なのだろうか。


このクラッカー問題に対する回答が聞きたい。


(明日に続く)