テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ (星海社新書)
- 作者: 伊藤剛
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2014/09/26
- メディア: 新書
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以上。
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なので、以下は私がこの本を読んで、内容と無関係に考えたことを書く。
「ガンガン系」と呼ばれる、スクウェア・エニックスなどから出版されている
マンガがあって、メジャーな週刊少年誌からは切り離されて考えられている、
という話があった。
実際、私も読んでいない。
が、メディアミックスでガンガン系はわりとアニメ化される。
それを見ると、やっぱり違和感がある。
例えばアニメ「アカメが斬る!」では、第1話で主人公の少年と一緒に村を
出た友達が、拷問が趣味の家族に惨殺されている。
彼らの死は、いったい何の意味があるのだろうか? ただ物語を序盤から
盛り上げるためだとしたら、少年マンガのコードから外れているような
気がする。
また、記憶があいまいだが、雑誌「ユリイカ」で藤田和日郎と荒川弘が
対談したときに、「鋼の錬金術師」で、飼い犬と合成獣にされたニーナ・
タッカーの死について、藤田が批判しているのを読んだことがある。
これも少年マンガのコードからは逸脱している、と藤田が感じたから
だろう。
で、私が思うに、これは手塚治虫の作劇方法を真似ているからではないか。
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手塚マンガでも、実に簡単に人の死が描かれる。
もちろん物語を盛り上げるためでもあるし、私が気がつかないもっと
深い理由もあるのだろう。
その一方で、手塚マンガはスター制度がある。
キャラクターを役者とみなし、手塚マンガの中で演じている、という
スタイルだ。
これだと、マンガの中の死は役者の演技であり、キャラクターは別の
作品に登場するから、読者はワンクッション置いて登場人物の死を
受け容れられる。
スター制度には、そういうメリットがあったのではないか。
というか、こんな話は何十年も前にとっくに語られていると思うが。
ところが、ガンガン系のマンガでは、たぶんスター制度でマンガを
描いている人はいない。キャラクターは使い捨てである。
ここに私のような頭の古いオッサンは違和感を持つのだ。
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じゃあ、人の死ぬマンガはダメなのか、というと、そうではない。
ここらへんがうまく言えなくてモヤモヤするのだが、読んでいて納得
できたらそれでいいような気がする。
「進撃の巨人」でも、バタバタ人が死んでいくが、読んでいてもあまり
引っかからない。
それはお前の好みだろう、と言われてしまえばそうなのかもしれないの
だが、人が人を殺すのと、人以外の何かが人を殺すのとの違いだろうか。
うまく他人を説得できる理由が思いつかない。
ガンガン系のマンガの違和感は、たぶん私だけが感じているのかも。