ラノベのなかの現代日本

なかなか野心的な内容で面白かった。最後が尻切れトンボみたいになって
いたのが惜しかったので、もう少し粘ってみたらよかったのに。


この本は、ライトノベルで描かれている若者像と現代の日本の状況を、
ノスタルジアという言葉を梃子にして解説したものである。


と書いたものの、すっきりと腑に落ちているわけではない。
正直、途中によく分からない部分もあったし、話が飛躍しているような
部分もあったと思う。


けれども、ライトノベル(特に2000年以降に出版されたもの)が世代や
一般の人との断絶を表している、という話は納得できる。
やがてライトノベルというジャンルそのものが衰退していくだろう、と
いう予想も、哀しいけれど当たっているような気がする。



著者は東浩紀を引用してこう書いている。

 『動物化するポストモダン』のなかで東は、アニメ、特撮、SF、
コンピューター・ゲーム、雑誌文化といった「オタク系文化の起源」が、
いずれも『五〇年代から七〇年代にかけてアメリカから輸入されたサブ
カルチャー』であるという事実を想起させることで、オタクという存在が
みずからの内に抱え込んでいるアメリカ文化への憧れとコンプレックスが
本質的なものであることを強調した。

 オタク系文化の歴史とは、アメリカ文化をいかに「国産化」するか、
その換骨奪胎の歴史だったのであり、その歩みは高度経済成長期の
イデオロギーをみごとに反映してもいる。したがって、もしいま私たちが
アニメや特撮の画面構成に日本的な美学を見てしまうのだとすれば、
そのときは同時に、つい数十年前までこの国にはアニメや特撮はなかった
のであり、それが「日本的」になった過程はかなりねじれたものだった
こともまた思い起こしておく必要がある。(『動物化するポストモダン』)

( p72 - 73)


私がこの部分を読んで直感的に思ったのは、米国はリアルな戦争を
継続してきた、ということだ。
第二次大戦→朝鮮戦争ベトナム戦争→(冷戦)→湾岸戦争イラク戦争
と、冷戦の中断はあるものの、米国の若者たちは外国で戦争をしてきた。


一方で日本は今日まで戦争をしていない。
宮台真司のいう「終わりなき日常」は、戦争のない国でしか通用しない
感覚なのではないか。



だがしかし、スクールカーストは米国が発端である。
もう自分でも混乱して何が言いたいのか分からなくなっているが、
ライトノベルが一定の市場を形成できる国って、日本ぐらいじゃね? と
いうことを戦争をからめて論証したかったのです。すいません。


しかも自分できちんと読んだラノベは「IS」と「やはり俺の青春ラブコメ
まちがっている。」だけで、後者はいま6巻に入ったところである。
ほかのラノベを読んだことがないくせに言うのはアレだが、「やはり俺の
青春ラブコメはまちがっている。」(略して俺ガイル)は凡百の作品とは
違って妙に面白い気がする。


たぶん「ラノベのなかの現代日本」の著者も、俺ガイルからの引用が
多いので、気に入っているのではないだろうか。



でも、やっぱりサブカルチャーサブカルチャーなので、たとえば
朝井リョウの「桐島、部活やめるってよ」のような文学的評価を得る
ことはないのだろうな、と思う。
なんだかもったいない。