食べる日本近現代文学史

食べる日本近現代文学史 (光文社新書)

食べる日本近現代文学史 (光文社新書)

読み終わって数日経つのだが、すでに印象がぼんやりしてしまい、
何が書いてあったのかよく覚えていない。


本書は小説に描かれている料理から、その本質に迫ろうというもの
だが、いまひとつ食い足りなかった。


ただ、これまでの文学は、出された料理についてあれこれ書くもの
であったのに対し、現代では料理をする人が誰かに提供したものに
ついて書くようになったのではないか、という指摘は鋭い。


草食系男子による、新しい料理小説が出現することを楽しみにして
いる。



私は実家ぐらしだが、自分の食べるものは自分で作っている。
理由は簡単。母の料理がまずいからである。


じゃあ、自分の作ったものは旨いのかといえば、まあ普通だろうと
思う。が、確信を持って断言することはできない。
なぜなら、他人に食べてもらっていないからである。


小説やマンガにたとえるなら、自分で書いたものを誰にも見せずに、
自分で読んで、まあ面白いだろう、と言っているようなものだ。
単なる自己満足である。


実際は、晩御飯を食べるごとに感動している人はそういないだろう
から、小説やマンガのようなクリエイティブなものと、日常のご飯
は別のものである。


とはいえ、これまで他人の評価の目に曝されずにいたのは事実で、
それに気がつくと、自分で自分を騙していたような気もする。



主婦は家族に食事を作るとき、どういう心境なのだろうか? 
最初に彼氏のために作ったドキドキはすでに失せていると思うが、
夫や子供がどういう反応をするのか、どのくらい気になるのか。


それとも、さっさと食べてくれないかなぁ、ぐらいにしか思って
いないのか、妻がいないだけに気になる。



自分で作ったカレーは、普通に旨いと思うけれども、他人が食べ
たらどうなのか。その人が食べ慣れたカレーとは微妙に違うだろ
うから、まずくはないけどなんか違うな、と思うのではないだろ
うか。


ラーメンの評価は山ほどあるが、カレーがそれほど盛り上がって
いないのは、カレーが普通の晩御飯としてよく作られる家庭の味
だからだと思う。



秋山殿の好きな食べ物:お母さんの作ってくれたカレー