Boaz2012-01-07

江 弘毅の「アジールとしてのお好み焼き屋」という文章()を
たまたま読んだ。
唸った。


お好み焼きはグルメ的な記号で消費されるようなものではない、と
いう話には深くうなずいた。
お好み焼きという食べ物ではなく、それが提供される場が大事なの
だ、という話である。素晴らしい。


その感想はいったん棚上げして、引っかかる点を書いておく。


私の育った町内には、そのようなお好み焼き屋はなかった。
あったかもしれないが、私の母は買い食いを許さなかったので、食
べるチャンスはゼロであった。


大阪や京都という大都市ならば、下町にいくつもお好み焼き屋があっ
て、子供が小銭を持って通っただろう。
そういう環境で育っていない私のような奴は、単なるイナカモンと
して扱われる。


私はそういう京都・大阪人の底意地の悪さが嫌いである。
完全に僻みと逆恨みだが、人見知りですぐに誰とも打ち解けられない
ような人間が存在する、ということを考慮していない文章を読んで
しまったので、つい腹が立ってしまったのである。