落語評論はなぜ役に立たないのか

落語評論はなぜ役に立たないのか (光文社新書)

落語評論はなぜ役に立たないのか (光文社新書)

落語家には面白い人とそうでない人がいる。
こんな当たり前なことも分からず、エセ落語評論家の言うことを鵜呑み
にして落語嫌いになっていく人がいるのを我慢できずにこの本を書いた
ように思える。


ただ、筆者のいう「エセ落語評論家」とは具体的に誰のことなのか、
その評論家はどんなことを語っていてどこが間違っているのかは、ひ
とつも書かれていない。


ケンカを売るなら、きちんと出典を明記した文章を出して論証するの
が筋なのではないだろうか? 


もうひとつ、著者にとって上方落語というのは存在しないようだ。
自分の守備範囲ではないからだろうけど、ひとこと断りを入れておく
べきだと思う。


(巻末の私的落語家ランキングには、なぜか25位に笑福亭鶴瓶が入って
いるが、これは自分で聴きに行った数少ない上方落語家だからだろう
か?) 


私のように田舎に住んでいると、気軽に寄席に行って落語を聴きに行
けるわけではない。
なので、このように実際にこの落語家が面白いから是非、と言われて
も困る。
だったらCDで昭和の名人を聴いた方がマシだ。



と思っていたら、BS朝日で「落語者」という番組をやっており、立川
志らくが「疝気の虫」を演じていた。
虫の描写がエイリアンのチェストバスターのようで面白かった。


以下、全く関係ない話。
この一席のなかで、志らくは外国の戯曲を日本人がやることについて
おちょくっていた。明らかに日本人の顔なのに外国人の名前と衣装な
のはいかがなものか、と。


これは演劇界ではとうの昔に決着がついた話なのかもしれないが、日
本以外のアジアやアフリカ諸国でも、西洋人の戯曲を西洋人の衣装と
名前そのままで上演するのは普通なのだろうか? 


舞台や名前を自国に変えると、持ち味が半減してしまうから、あえて
オリジナルのままやる、というのも分かるのだが、観客は誰も変だと
思わないのだろうか。


逆に、日本の戯曲を、日本人の名前や衣装で上演した欧米の劇団はた
くさんあるのだろうか? ほとんど聞いたことがないのだが。