敬意の位置エネルギー

教える人と教わる人の間に、敬意がなければ授業は成立しない。
教える立場から見て、相手がどんな態度だろうが、敬意さえあれば何らかの
ことを学んでいると言える。


逆に、まったく敬意がない場合は、いくら授業中の態度がきちんとしていて
も、学ぶべきことが伝わっていないはずだ。


敬意は位置エネルギーのように、教わる人が教える人を上に見ないと、学ぶ
内容が落ちてこない。
少しでも上下差があれば、学びは成り立つが、逆になると絶対に成り立たな
い。水が下から上へ登っていかないのと同じである。


ややこしいので、具体的に述べよう。


私の授業のとき、生徒たちは一見ダラダラしているように見える。
もちろん、ビシッと姿勢を正して真剣にこちらを見つめてくれれば、それに
越したことはないのだが、ちゃんと聴いていることは質問をすれば分かる。


しかも、彼らからの質問も的を射たものが多く、それが授業を活性化させて
いることは間違いない。少なくとも、私の授業では誰も眠らない。


一方、数学担当の同僚の授業はどうか。
一部の生徒たちは、彼に対して全く敬意を持っていないので、ほとんど学級
崩壊状態である。
遅刻は平気でするし、テストをしてもふざけた答しか書かない。
注意をしても、言葉が届かずスルーされる。


また、女子が彼の授業を受けた場合は、おとなしく座って聞いているが、
「ねー、さっきの授業わかった?」
「全っ然わからんかったー」
「うち、別のことしよったもん」
「あとであの問題の解き方教えてー」
という会話を授業が終わったあとでしている。


にもかかわらず、同僚は自信満々で、自分の言葉が生徒に届いていると信じ
ている。
これだけ嫌われているのを、なぜ自覚できないのか、と考えてみた。


たぶん、本当の自分の姿を認めてしまえば、何もいいところがない己と向き
合わざるを得ないからだろう。
そんな苦痛よりは、偽りの自分を信じていた方が自我を守れる。
こういう人は、何年経験を積もうが全く成長できないのも当たり前だ。


生徒が言うことをきかないのは、生徒が悪いからだ、と同僚は考える。
そして、そういう奴は塾をやめさせなければならない、と言う。
実際に、今日ひとりの生徒がやめさせられた。学年末テストの英語で100点を
とった子である。


同僚は、自分が生徒に敬意を持たれていないことを棚上げしている。
言うことをきかない生徒は、これからもたくさん出てくるだろう。
敬意がない子を次々にやめさせていけば、やがて塾は潰れてしまう。


私はこのことを社長に何度も言ったのだが、いまだに同僚が塾に居座って
いる。経営者として、いかがなものか? 
英語の授業だけ受けたいんですが、という訴えがいくつかあるが、すべて
黙殺している。


私はやめさせられた子が気の毒でならない。