できそこないの男たち

できそこないの男たち (光文社新書)

できそこないの男たち (光文社新書)

週刊文春に連載しているエッセーでは、一人称が福岡ハカセになっているので、
ここでもそう呼ばせてもらう。


前作の「生物と無生物のあいだ」と同様に、この「できそこないの男たち」も
面白かった。
福岡ハカセは、こう書いている。

 教科書はなぜつまらないのか。それは、なぜ、そのとき、そのような知識が
求められたのかという切実さが記述されていないからである。そして、誰がど
のようにしてその発見に到達したのかという物語がすっかり漂白されてしまっ
ているからでもある。


その漂白されてしまった部分は、本書でいうと、Y染色体で新たに発見された
遺伝子についてであり、福岡ハカセのスリリングな筆致は読者を惹きこませる。
教科書もこのくらい書いてくれれば面白いのに。


福岡ハカセによると、オスはメスの遺伝子を運ぶだけの哀しい存在である。
本来はメスだけでいいはずなのだが、遺伝的な多様性を持った種の方が生き
残りやすかったためか、メスをカスタマイズした生物(=オス)を生み出した。


オスはメスを無理やり改造したものだから、メスに比べて生物的に弱い。
人間でいえば、50代以降は男性の方が女性の2倍、ガンになりやすいのだそう
だ。


では、なぜそのような弱く哀しい存在のオスが、人間世界で財貨や知識を独
占しているように見えるのか? 
本書の最後の部分で、福岡ハカセは自分の仮説を述べている。


文化人類学の領域まで踏み込んでいる部分は、どうかな、と思うのだけれど、
メスが欲張りすぎたからだ、というのは個人的に深く頷ける話だ。


そして、私にとって本当に面白かったのは、エピローグの部分だった。
なぜ男性はそうまでして遺伝子の運び屋に甘んじなければならなかったのか。
それはセックスの快感に逆らえないからだ。


では、セックスの快感と同様なものはなにか。
それは加速を感じる感覚なのだそうだ。


加速を感じると気持ちいいというのは、自分とともに流れている時間を意識
するからである。
魚が水の中にいると、自分たちは水という物質の中で生きていることを意識
できないように、我々は時間の中で生きているので、時間を意識することは
難しいのだそうだ。


しかし、加速を感じると、我々にまとわりついている時間を知覚することが
できる、ということだ。ううむ。


とすると、男がモータースポーツを比較的好むのも、そういう気持ちの表れ
だろうか。
たしかに私は加速するものに興味がないので、性的な衝動もあまりない。


ただ、加速を感じる知覚は、男性特有のものではなかろう。
なのに、どうして男性の方が加速が好きなのかは謎だ。


それに、手軽に加速を感じられる装置が開発されたのは、けっこう最近のこ
とだろう。
それまでは、せいぜい馬に乗るぐらいだったのではなかろうか。
加速したものに乗るのが苦手な人だって、けっこう多いはずなので、ちょっと
加速説には無理があるのかも、と思う。


とはいえ、非常に面白い本なので、ぜひ読んでいただきたい。
なんで男にも乳首があるんだろう、と思った人は、絶対に読むべきです。