巨匠の芸

夜中にNHKで「桂米朝一門60年の歩み」というのをやっていたので、
なんとなく見てしまった。


戦後、壊滅状態だった上方落語を復興させた桂米朝は、自分の芸を
引き継がせる弟子を晩年になって相次いで亡くす。
その悲劇を乗り越えて、息子に自分の師匠の米團治の名を次がせる
という内容だった。


私も桂米朝の落語が好きで、松山に来たときに見に行ったことがあ
る。
すでに全盛期を過ぎていたものの、渋い語り口に感動したものだ。


巨匠と呼ばれる人は、長生きでないとそう呼ばれない。
その人の芸術が老いてもなおきらめき、円熟していくさまを見る喜
びは、何ものにも代えがたい。


失礼なことを承知で言えば、観客はいつ死ぬかもしれない巨匠の芸
を、これが最後かもしれないと予感しつつ楽しんでいる。
そこに、芸の深みがあるといってもいいだろう。


技術や勢いではなく、枯れた味わいを感じさせるのが巨匠の巨匠た
る所以かもしれない。


時間をかけなければ蓄積できない何かを感じるというか、受け取る
側にも教養が要求されるのだと思う。
長生きするのも芸のうち、とはよくいったものだ。


これが、マンガやポピュラー音楽ではそういうわけにもいかないの
が不思議だ。
いや、水木しげるのマンガは、すでに巨匠の味があるか。
マンガ家としては珍しいタイプだといえよう。