劇場の政治化

内田樹のブログで「政治化するお笑い」という文章があった。
バラエティ番組の芸人を見ていると、上位芸人から下位芸人への笑いのパス
回しが、そのまま政治のパワーゲームになっている、という内容だった。


非常に鋭い指摘で面白かったのだが、先日の「ガキの使い」は、それを軽く
乗り越えていたように思える。


何回かやっているシリーズのひとつだが、何組かの後輩芸人とダウンタウン
がゲームをして、罰ゲームを受けなければならない。
しかし、ダウンタウンのふたりは、先輩芸人の権力を使って罰ゲームを受け
ない。


番組の画づらとしては、それこそ上位芸人の権力でパワーゲームを操ってい
るように見える。
もし、洒落が分からない人が見たら、ダウンタウンはなんと悪辣な奴らだろ
うと思うだろう。


しかし、これはダウンタウンが仕組んだ、パワーゲームそのものを笑う、と
いう遊びである。
理不尽なことをする先輩芸人を演じることによって、場の空気そのものを戯
画化しているのだ。


これは、笑いの構図そのものを客観視できるという、ダウンタウンの笑いの
次元の高さを物語っていると思う。


もちろん、彼らが司会をしている番組では、笑いをコントロールしているの
ダウンタウンである。
多くの芸人はそこで止まっているから、笑いの構造を変えられないでいるよ
うな気がする。


私が思うに、とんねるずダウンタウンの違いは、自分自身を笑いの対象に
できるかどうか、という点にあるのではないか。
また、若手芸人が、いまだにダウンタウン以上の革命を起こせていないのも、
そのあたりに原因があるのではないか。


もっとも、私自身がダウンタウンで笑いの感覚がストップしているせいかも
しれないのだけれど。