話を聞けない子たち

先週の新聞に、高校入試で国語のリスニングテストをしている県が紹介されていた。
英語ではなく、国語である。


日本語の文章を朗読して、何を言っているかを答えさせるらしいが、いったい日本人はどう
なってしまったのだろうか。


そういえば、塾の生徒たちにも、人の話を聞けない子がいる。
当たり前だが、そういう子は成績がよくない。
彼らが感じている世界では、自分が聞きたくないものはカットされているようだ。
自分でノイズキャンセリングしているのだろう。


以前、内田樹の本で、矛盾を「無純」と書く学生の話があった。
これまで生きてきて、いくらでも矛盾という漢字を見る機会はあったろうに、大学生になっ
ても正しい字を知らず、あろうことか新しい熟語を作るのはどういうことか。


恐らく、その子は自分の知らないことや興味のないことは無視しているのだろう、という結
論になっていた。
その子の目で世界を見ると、虫食いの穴だらけなのではないか、と。


なぜそんなことになったかといえば、あまりにも周りに情報が溢れすぎており、自分でシャ
ットダウンしない限り、処理しきれないからだ。


それでも、昔は無知を恥じるという風潮があり、どこかである程度の情報を入力していた。
それが、今では自分が必要だと思っている情報だけを受け入れている。
無駄がないように見えるが、単に中味がスカスカの人間にすぎない。


もうひとつ付け加えると、そういう人同士の意思疎通は、中味がスカスカなままでも成立し
ている。
むしろマジな中味だと相手が引いてしまう可能性があるのだろう。
携帯メールが顕著な例だが、内容よりも相手と通信しているという行為そのものが目的なの
だ。


なので、相手に何かを伝えようとするときは、数割ぐらいしか伝わっていない、と思ってい
た方が良さそうだ。
そのくらいがちょうどいいのかもしれない。