サイン

塾の生徒が、黒板に自分のサインを書いているのを見たことがある。
中学生ぐらいになると、頼まれもしないのに自分の名前をサインにする風習があって、それを見て
いると、四半世紀前に私もサインを考えていたのを思い出した。ああ、恥ずかしい。


たぶん思春期になると、誰でも一度は自分が有名人になって、サインをねだられる空想にふける
のだろう。そんなとき、さらさらっと格好いいサインを書けたらどんなに素敵だろう、と。


いかんせん、中学生ぐらいのデザイン力である。たいていはひらがなかアルファベットをこねくり
まわしたもので、本人に解説してもらわなければ読めないような代物しか出来上がらない。
それに、そもそも他人にサインをねだられることがないから、そのうち書かなくなって、やがて自
分がそんなことをしていたことを忘れる。


唯一の例外は、アイドルになった少年少女たちだろうか。
彼らは恐らく自分で考えたサインをファンに書いてあげられる、稀有な存在なのだ。


大人になってからするサインは、責任をともなう重いものになる。
普通は自分の名前を書くが、それにも漢字派とローマ字派がいる。
大臣になったら、閣議のときに花押というサインを書かなければならない。
若い人が大臣になったときどうするんだろうか。


最も一般的なのはクレジットカードを使うときにするサインか、配達されたものを受け取るときの
サインだと思う。後者はハンコでもいいが、最近はサインで済ませる人が多いだろう。


そのクレジットカードも、ネット上で買い物するときはサインすらいらない。
もはや、自分が自分であることを証明する手段に、身体性は必要なくなったのである。


その一方で、銀行などの本人証明には、指紋や手の静脈、それに虹彩認証も使用される。いず
れも固有の身体的特徴がなければならない。ご苦労なことだ。
たしかトム・クルーズ主演の「マイノリティ・リポート」という映画で、目玉だけを抜き取って認証に
使う場面があったと思うが、生きているものでないと受け付けないようなシステムにするべき
だろう。


話がとっ散らかってしまった。
ここで私が提案したかったのは、大人になって本人証明のためにするサインに、自分が中学生のと
きに考えたものを使ってみてはどうか、ということだ。


あんなに練習したものが、アイドルを除いた99%は棄てられるのである。
もったいない。
ならば、もう一度あのときのサインに日の目を見せてやったらどうだろうか。


きっと恥ずかしくていたたまれないような気持ちになって、うかつにサインをするようなことも減
るのではないかと思う。


本文と写真はまったく関係ありません

中学生サインの宝庫