生物と無生物のあいだ

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

評判になっているだけあって、面白かった。
この本は、分子生物学の黎明期からDNAの発見や、PCRという画期的なDNA増幅装置の開発、それに
細胞膜とタンパク質の謎などについて、文学的ともいえる筆致で書かれている。


進学校の高校生で生物を選択する人がいたら(特に文系ならなおさら)、履修前にこの本を読んで
おくことをお薦めする。
難しいことをこれほど分かりやすく、身近な比喩で解説してくれる本はない。
私が分かるぐらいだから、ほとんどの人が理解できるはずだ。


ただ、最後が尻切れトンボで終わっているような気がした。
マウスの脾臓のGP2タンパク質は、結局どういう働きをしていたのか、よく分からないままになって
いるからだ。
マウスの遺伝子をノックダウンしたものとノックインしたものの比較をすべきではなかったのか、
と思う。


私が印象に残ったのは、第8章で紹介されたシュレーディンガーの言葉である。
「われわれの身体は原子にくらべて、なぜ、そんなに大きくなければならないのでしょうか?」
この答えは次のとおりだ。

 さて、生命現象もすべては物理の法則に帰順するのであれば、生命を構成する原子もまた絶え間の
ないランダムな熱運動(ここに挙げたブラウン運動や拡散)から免れることはできない。つまり細胞
の内部は常に揺れ動いていることになる。それにもかかわらず、生命は秩序を維持している。その大
前提として、“われわれの身体は原子にくらべてずっと大きくなければならない”というのである。


 それは、すべての秩序ある現象は、膨大な数の原子(あるいは原子からなる分子)が、一緒になって
行動する場合にはじめて、その「平均」的なふるまいとして顕在化するからである。原子の「平均」的
ふるまいは、統計学的な法則にしたがう。そしてその法則の精度は、関係する原子の数が増せば増す
ほど増大する。


 ランダムの中から秩序が立ち上がるというのは、実にこのようにして、集団の中である一定の傾向
を示す原子の平均的な頻度として起こることなのである。


 ここで、百個の微粒子からなる集団を考えてみよう。彼らが水中に分散されていれば、ブラウン運
動によって常にランダムに揺れ動いているだろう。さて、これらの微粒子を空気中にばら撒いたとす
る。先にシュレーディンガーが挙げた霧の例と同様、微粒子は空気中の分子にこづきまわされながら、
四方八方にさまよいつつも重力の影響を受けて「平均」としては、下方に落下していく。


 また別の実験として、百個の微粒子を、水を張った四角い容器の右隅に溶かしこんだ場合を想定し
てみる。この場合も、微粒子は水分子と衝突してランダムにたゆたいながらも、先に記した拡散の原
理によって、「平均」としては、徐々に濃度の薄い左方向へ広がっていくだろう。


 では、今、このような微粒子のふるまいを「平均」ではなく個々に、ある一瞬間だけ、正確に観測
してみることができたとしよう。すると、百個の微粒子の大多数は、空気中にばら撒かれれば落下し
ているはずだし、水溶液の一隅に溶かし込まれれば濃度の薄い方向へ拡散しているはずだ。が、観測
したその一瞬をとってみれば、粒子のうちいくつかは、この法則からはずれて、落下ではなく上昇し
ているもの、あるいは濃度の薄い方向から濃い方向へ逆行しているものがあるはずである。


 平均から離れて、このような例外的なふるまいをする粒子の頻度は、平方根の法則(ルートn法則)
と呼ばれるものにしたがう。つまり、百個の粒子があれば、そのうちおよそルート100、すなわち十個
程度の粒子は、平均から外れたふるまいをしていうrことが見出される。これは純粋に統計学から導
かれることである。


 さて、仮に、たった百個の原子から成り立つ生命体を考えてみよう。この生命体は、どのような生
命活動を行うにせよ、原子のうち常にルート100、すなわち十個程度の粒子はその活動から外れること
を覚悟しなくてはならない。全体が百で、例外が十ならば、生命は常に10%の誤差率で不正確さをこ
うむることになる。これは高度な秩序を要求される生命活動において文字通り致命的な精度となるだ
ろう。


 では、生命体が百万個の原子から構成されているとすればどうだろうか。平均から外れる粒子数は
ルート100万、すなわち1000となる。すると誤差率は、1000÷100万=0.1%となり、格段に下がる。実際
の生命現象では、百万どころかその何億倍もの原子と分子が参画している。生命体が、原子ひとつに
比べてずっと大きい物理学上の理由がここにあるとシュレーディンガーは指摘したのである。


 生命現象に参加する粒子が少なければ、平均的なふるまいから外れる粒子の寄与、つまり誤差率が
高くなる。粒子の数が増えれば増えるほど平方根の法則によって誤差率は急激に低下させうる。生命
現象に必要な秩序の精度を上げるためこそ、「原子はそんなに小さい」、つまり「生物はこんなに大
きい」必要があるのだ。


ということである。ちょっと長く引用しすぎた。すいません。


つまり、原子の数が多ければ、それだけ誤差を吸収できるから、生き物は大きい方が生存に有利だ、
ということらしい。
ふむふむ。


しかし、私が前に読んだ岡田節人の本によると、地球上の生命のうち半分は昆虫で、昆虫の半分は
鞘翅目(甲虫)だとあった。
すなわち、最も繁殖している生物が最も環境にフィットしているとすれば、地球での最適の大きさ
は昆虫ぐらいなのではないか、と思うのだがどうなんだろう? 


もしそれが正しいとすると、哺乳類は大きすぎることになる。
まあ、原子や分子の大きさから比べたら、昆虫と哺乳類の大きさの違いなんて誤差にすぎないのだ
ろうけど。
(それに、恐竜が栄えた時代もあったのだから、生物の大きさと環境の間には、あまり関係がないの
かもしれない)



生命とは何か? それは自己複製を行うシステムである。
このフレーズは、何回も登場する。
筆者はこれに、生命とは動的な平衡である、という定義を加えたいようだ。


動的な平衡とは何か? それは絶えず中味が入れ替わりながら、一定の形を保つシステムである。
私たちの細胞は、日々生まれては消えていく。
にもかかわらず、不思議なことに私たちは私たちの身体を保っているのである。
方丈記の冒頭にある「ゆく川の水は絶えずして しかももとの水にあらず」というやつだ。


文系の私としては、なぜ生き物は同じ形をキープできているのだろう、という疑問を持つ。
いや、昨日の自分と今日の自分が同じであると、なぜ認識できているのか、という疑問にすべき
かな。
これは養老孟司がさんざん語っていることで、つまりは脳がそういうものだからだ、ということ
らしい。


なんだか分かったような分からないような話だ。


人間のキズは、ある程度浅ければカサブタができてきれいに治る。
ところが、深い傷だと痕が残ってしまう。この違いは何なんだろう? 
サンショウウオは腕がちぎれても再生するが、人間は指がちぎれてもそこから生えてはこない。
動的平衡理論では、一定の形をキープするはずだが、後天的なダメージは回復不能のようだ。


そうすると、傷を残すことにも何らかの意味があるのかもしれない。


たとえば、処女膜は一度傷ついたら元には戻らず、出産時に完全に失われる。
人類がいつから処女を大事にするようになったのかは分からないが、もし処女膜があった方が
生存に有利だったら、サンショウウオのように傷ついても再生するはずである。
どんなヤリマンも、永遠に処女だ。


しかし、性交するたびに破瓜の痛みに耐えなければならないのは、いくらなんでも大変なので、
傷は再生しないようになっているのかもしれない。
むしろ、傷は生体に刻み込まれたメモリーであり、動的平衡状態にあっても、ある時点の記録と
してそこに刻まれている、と考えられるかも。


最後は居酒屋のオッサンみたいになってしまったが、もちろん「生物と無生物のあいだ」はこん
な下品なトークは一切ないのでご安心を。


本文と写真はまったく関係ありません

川*^∇^)||<金もいらなきゃ女もいらぬ
川´・_・`川<あたしゃ、も少し背がほしい(←玉川カルテット