東京ファイティングキッズ

内田樹平川克美は小学5年生のときからの友だちだそうだ。
といっても、2人でいつも会っていたわけではないし、旅行に行ったこともない、という関係
らしい。
そんな2人の往復書簡集である。


簡単に触れているだけだが、この2人は「白金ゼミナール」という学習塾をつくったり、「アー
バン・トランスレーション」という翻訳会社をつくったりした、いわば企業家どうしである。
いろいろあって、今は片や大学教授で、片や代表取締役社長という人生の成功者になっている。
なんともうらやましい。


ときどき威勢のいいブログを見たりすると、頭のいい人は他の人がみんなバカに見えてしょうが
ないんだろうなぁ、と思うことがある。
でも、決して読んでいて楽しい気分にはならない。なぜなら私はそのバカの一人だから。


でも、「東京ファイティングキッズ」には、そういう感じがない。
2人とも頭のいい人であろうし、他人がバカに見えることもあるだろうけど、商売をやってきた
せいか、バカを萎縮させるようなことは書いていないのである。
バカですら、そうそう俺が言いたかったのはこういうことなんだよ、と思わせるのが、読者を引
きつけるテクニックなのかもしれない。


メールのやりとりを本にしているので、ひとつの話題を練り上げているような内容ではないが、
サクサク読めてちょっと賢くなった気分になれる対話集だと思う。
以下、おもしろかったところをピックアップする。


平川

 ぼくは、多くのMBAと一緒に仕事をしましたが、(おいしい場所に自らをポジショニングして
キャリアパスを手に入れる手法、まあ姑息ということですが----それ以外には)ほとんど彼らが何
を学んだのか理解できませんでした。彼らからMBAホルダーとしての知見を学ぶこともほとんど
ありませんでした。
 ウチダくんもご存知のように、ぼくは人の意見や異見に対してとくに不寛容な人間ではありませ
ん。むしろ、非常に柔軟に、よい意見には従いますし、前言撤回に躊躇しません。それでもほとん
ど学ぶべきものがないのです。

MBAは人としてのやさしさと引き替えにもらえるものかもしれない。
そのやさしさはブリストルマイヤーズが集めて、バファリンに使っているのである。


内田

 煙を共有することの拒否。それが嫌煙運動であり、その運動が他ならぬアメリカから始まった
ということは象徴的な出来事だと思います。「お前の口から出てきた煙をオレにすわせるな」と
いう言明は「あなたと共同体を形成することの拒否」の表明です。
 それは同じアメリカ発の「デオドラント」運動とも軌を一にしているように思われます。
 他人の体臭に対する嫌悪、自分の体臭が他人に感知されることへの恐怖、これぞまさしく「私有
主義」イデオロギーの典型的な表れでしょう。
 ご存知のとおり、民族差別・人種差別のもっとも徴候的な表出は「お前は臭い」という言い方を
採ります。
 それは事実認知的に「臭気がする」という意味ではなく、「お前が吸っているのと同じ空気を
オレに吸わせるな」という「幻想的な共‐身体をその他者と共有することの拒絶」です。
 空気という、不定形で、それなしでは生きてゆけないものを他人と分かち合うことの拒絶。
 アメリカの嫌煙権運動とデオドラントへの異常なこだわりは、かの国で人種差別が「政治的に
正しくないこと」として公的に禁止されたことと、トレードオフの関係にあるんじゃないでしょ
うか。

口臭は、口臭防止薬が作られるまで意識されることはなかったそうだ。
臭いものって、ついつい嗅いでみたくなるのが人間の本能だと思う。



内田

 反対給付 (contre-prestation) というのは人類学の概念ですけれど、「何かを贈与されたら、
それを別の誰かに贈与しないと、気持ちが片付かない」という感覚のことです。
 レヴィ=ストロースはこの反対給付の感覚が三つの水準でのコミュニケーション(財貨・サー
ビスの交換=経済、言葉の交換=言語、女の交換=親族)を基礎づけているという驚嘆すべき
仮説を立てたわけですけれども、このレヴィ=ストロースの説には十分な説得力があると思い
ます。
 自分が何かを達成したときに、それを「獲得」であると感じず、「贈与」であると感じること
ができる能力、それをレヴィ=ストロースは「人間性」と名づけたわけです。
 その意味ではいまのぼくたちの社会に蔓延している「サクセス志向のイデオロギー」というの
は、人間がだんだん「人間でなくなる」プロセスと言えるのかも知れません。

人間でなくなったら何になるかというと、法人になるのである。
まさに会社人間。



内田

 90年代以降のハリウッド映画のヒロインはほとんど例外なく「眉をひそめ、口をへの字にまげ、
烈火のごとく怒り、ドアをばたんと閉め、電話をがちゃんと切り、男をはり倒す」というふるま
いを「自己表現」の仕方として好んで採用しています。
 いったいどうしてハリウッドのフィルムメーカーたちは、これが当の女性たち自身や子どもた
ちが、長くその被害者であった「父たち」の粗暴な作法の、彼女たちがいちばん傷つけられた当
のふるまい方の繰り返しであることに気づかないでいられるのでしょう。
 これを説明できる理由として、かの国にはそのことばの純正な意味での「マザーシップ」とい
うものが根づいていない、ということしかぼくには思いつきません。
(中略)
 それ自身の価値をそれ自身で基礎づけることのできるような自立した「マザーシップ」、知恵
と力に裏づけられた「マザーシップ」というものを、アメリカ社会は少なくとも過去200年間は、
人類学的装置として評価するだけの文化的基礎をもっていなかったようにぼくには思えます。
 でも、人間はもちろん「マザーシップ」なしには生きてゆけません。では、アメリカ社会で
「マザーシップ」の社会的機能を担っているのは、誰でしょう? 
 ぼくの見るところ、どうやらアメリカでは二種類の人間たちがそれを担っているように思われ
ます。「ゲイ」と「じいや」です。

これは卓見だと思う。続きはぜひ本を読んでいただきたい。



内田

 「創氏改名」ということが日本の植民地的暴政の一例としてよく批判されますけど、アメリ
だって移民がエリス島で入国手続きするときに、勝手に「アメリカ風」の名前にじゃんじゃん変
えてます(『ゴッド・ファーザー2』でエリス島についたヴィト少年は出身の村の名前と姓を取
り違えられて「じゃ、君はヴィト・コルレオーネだ」と創氏改名されてましたね)。あれはいい
んですかね。
 李小龍ブルース・リー成龍ジャッキー・チェンリー・リンチェイだって、ハリウッド
に行くと「ジェット・リー」ですよ。何が哀しくて四十男が「ジェット」なんて呼ばれないとい
けないんでしょう(「少年ジェット」じゃないんだから)。
 真田広之も、ハリウッド映画では「ハリー・サナダ」、「デューク・サナダ」に「ヘンリー・
サナダ」ですからね。なんで「広之」が「ヘンリー」なんだよ。
 しかし、これらの行動をして「自民族中心主義」と批判する人はあまりいません。

香港人も自ら英語風の名前を名乗ってますよね。
なぜ朝鮮人だけがしつこくこだわっているのか分かりません。


内田樹の方の引用が多かったのは、単に私の好みである。


本文と写真はまったく関係ありません

从*^ー^)<ガキさーん! 交換日記なくしましたー! 
( ・e・)<予想はしてたけど、やっちゃったかー!