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公開して一週間ぐらい経っているから必要ないかもしれないが、一応たたんでおきます。
感想を書くためには、この「硫黄島からの手紙」とあわせて第一部にあたる「父親たちの星条旗」も
考慮しなければならないのだが、すでに前作をぼんやりとしか憶えていない自分の記憶力が情けない。
この硫黄島の戦いを描いた二つの映画は、きっと古典になって残るだろうと思う。
特に日本人にとっては、ハリウッド映画でこれほどきちんと日本人が描かれた作品は初めてだと思う
ので、非常にメモリアルなものになったはずだ。
(もし、黒澤明監督の手で「トラ!トラ!トラ!」が完成していれば、二番目になっただろうが)
そういえば、黒澤明はロシアで「デルス・ウザーラ」という映画を監督したことがあったが、この
とき黒澤はロシア語がほぼ理解できないまま演出した。
しかし、俳優の演技は言葉が違っても分かるらしい。
クリント・イーストウッドも、同じようなことを語っていた。
「硫黄島からの手紙」は、主人公の兵卒(二宮和也)と栗林中将(渡辺謙)の視点を中心に描かれて
いる。それは、硫黄島守備隊のトップから最下層の軍人までが米軍に追い詰められていく話であり、
時間的にも空間的にも非常に閉塞感があった。
その象徴となっているのが、硫黄島に掘られた縦横のトンネルである。
実物を見たわけではないが、本当にこれをほぼ人力で掘ったのか、と思うほど深く長いはずだ。
いま、鹿島や大林のようなゼネコンに、同じものを作ってくれ、と発注しても「冗談でしょう」と
断られる気がする。
一方の「父親たちの星条旗」の場合は、三人の兵隊と政府の対比が描かれており、硫黄島と米国との
時間的・空間的な広がりが意識されていた。
「硫黄島からの手紙」でも、時間的にフラッシュバックする部分はあるのだが、最小限度に留められて
おり、冒頭と最後の現代のシーンで意図的にパッケージしている。
攻める側と、追い詰められる側のトーンを対照的にして、両方でひとつの作品にしているのだと思う。
俳優で気になった点をあげていくと、渡辺謙は、リベラルだが祖国を愛するエリート軍人を飄々と演じて
おり、栗林中将はこういう軽い感じの人だったのか? とちょっと疑問に思う。
彼だけは、イーストウッド映画の決まりとして、最終的に姿を隠す。
(隠すというより隠されるというべきか)
二宮和也は、パン屋の主人から兵隊になった男で、シニカルな視点で軍を見ているが、いったいパン屋の
どこにそんな胆力があったのか、やはり説明してほしかった。あと、彼の言葉づかいはどうしても平成
っぽく聴こえる。戦前の人の口吻ではないような気がする。
中村獅童は、ファナティックな軍人で、上官の命令に逆らって玉砕しようとするが捕らえられる。
米国人にとっては、クレイジーな日本兵の典型に見えるのではなかろうか。
映画の中では、中村獅童以外の日本兵でも、手榴弾で自決するシーンや、トンネルに引きずり込んだ
米兵を銃剣で突き刺すシーンが残酷に描写されている。
そうかと思えば、バロン西(伊原剛志)が傷ついた米兵の手当てをし、彼が持っていた母親の手紙を
翻訳して周りの兵隊に朗読する非常に詩的な場面もあり、バランスをとっていた。
二宮のクールな表情のせいか、わりと淡々と見える映画だが、これを見て戦争に行きたいと思う
バカもそんなにはいないだろう。
硫黄島には、まだ1万2千人もの日本兵の遺骨が眠っているという。
映画の中で、いつか我々のために黙祷をささげてくれるだろう、という栗林中将の台詞があったが、
私もそうしたいと思う。
最後に、これらの映画を支えているのは徹底したリサーチと制作側の理解だと思う。
「パールハーバー」みたいなクソ映画を作った奴は、彼らの爪の垢を煎じて飲むといい。
そして、なぜ戦後60年間で、我々日本人の手による硫黄島の戦いの映画が作られなかったのか、
よく考える必要があるのではなかろうか。
本文と写真はまったく関係ありません