坊っちゃんと郷土愛

朝日新聞のコラムで、丸谷才一夏目漱石の小説「坊っちゃん」について書いていた。


松山の人はあれほど自分の住む街を罵倒されているのに、怒らずむしろ喜んでさえいる。
これは「三四郎」で近代化する日本を批判したように、松山を世界の中の日本と置き換えて
批判している小説と解釈し、そのような街に選ばれたのだから喜ぶべきだ、と松山の人が思っている
からではないか、と結論づけていた。


丸谷先生、それは深読みのしすぎというものです。
そもそも松山の人のほとんどは、ちゃんと「坊っちゃん」を読んでなどいません。


自分のふるさとをバカにされて怒るのは、そこに誇りを持っているからだろう。
逆に、どうでもいいものを貶されても、それほど腹は立つまい。
私は、郷土愛は教養とトレードオフの関係にあるのではないかと思う。


そのことを意識したのは、松山まつりのときだった。
いつ復活したのか分からないが、秋祭りのときに道後温泉の近くで神輿どうしをぶつけ合う行事が
あり、これに参加している男たちの多くが、どう見てもヤンキーっぽかったのだ。


その土地に生まれ、その土地で暮らし、地元のお祭りに喜んで参加する人々は、紛れもない郷土愛が
あると思う。それは健全なことだ。
その一方で、生まれた町を出て、都会に出る人もいる。
多くの場合、そのきっかけは進学や就職だろう。


そうすると、勉強の得意な人は東京や大阪に出て行き、そこで暮らし始める。
挫折しない限り、松山に戻ってくることはないだろう。そういう人に、強烈な郷土愛があるとも
思えない。何かのきっかけで、ふるさとのことを思い出す程度だろう。


つまり、松山に土着している人は、失礼ながらあまり本を読むタイプではなく、郷土愛はあるけれど
坊っちゃん」についてはどうでもいいと思っているはずだ。
一方、松山を出た人は、「坊っちゃん」を深読みできるけれど、それほど郷土愛がないので、やはり
どうでもいいと思っているだろう。


問題は、進学や就職でいったん大都市へ行き、Uターンして県庁・銀行・電力会社・新聞社・放送局
などに就職する、鶏口牛後な人々だ。
彼らはなぜ「坊っちゃん」を否定しないのか。


ひとつは、大都市を知っているので、漱石の言うことももっともだ、と納得しているからだろう。
反論のしようがないのである。
もうひとつは、権威に弱いからだろう。
夏目漱石は千円札の肖像画にもなった文豪である。文句をつけるよりも、小説を利用した方が何かと
便利ではないか。


その証拠に、司馬遼太郎の「坂の上の雲」も松山のイメージアップのために使われ始めた。
この小説では、松山はバカにされてこそいないが、主人公たちが活躍するのは、松山を離れてから
である。


明治時代以降、松山から傑出した人物は出ているのだろうか、と考えてみると、残念ながらいないの
ではないか。四国で唯一総理大臣が出てない県だし。
(政治家が偉いのかよ、という話もありましょうが、まあそこは鷹揚に)


極端な意見だけど、松山の知識人とでもいうべき人々が小物だから、そこで育まれる人間も小物になる
のではないか、と思う。
野心や骨のある若者たちは、こぞって県外へ出て行き、地方はさびれる一方なのではないか。


てなわけで「坊っちゃん」は、松山の人の懐が深いから許容されているのではなく、単にネームバリュー
があるから否定されていないのだろう。
よそにアピールできる材料があるだけ、まだマシなのである。


ちなみに、清水義範の「蕎麦ときしめん」という小説では、おおいに名古屋を笑っているけれども、
この作品は名古屋市民たちに受け入れられておるのだろうか? 

蕎麦ときしめん (講談社文庫)

蕎麦ときしめん (講談社文庫)


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