「[間歇日記]世界Aの始末書」というサイトを見ているのだが、この前ちょっとびっくりする話が
書いてあった。
なんでも、管理人さんの母親がぜんまい式の時計を修理するために、デパートの時計屋に持っていった
そうだ。
すると、その時計屋の若い店員が時計を持って奥に入ったままなかなか出てこない。
ようやく出てきたとき、その店員は
「すいません、電池はどこに入れるんでしょうか?」
と言ったそうな。
ただの若者ならともかく、時計屋の店員である。
どうなっているのだろうか?
ウェブでは、このような話がときどき上がってくる。
眞鍋かをりのブログでも、ことわざを全く知らない男が登場していたし、ある種の知識が完全に欠落
している人々が、思っている以上にたくさんいるようなのだ。
もちろん、私だって知識が完全に欠落している分野はいくらでもある。
ていうか、知っているものの方が少ない。情けないけど。
ただ、私は自分がものを知らないという自覚だけはあるし、恥じ入る気持ちも持っている。
なので、以下は私のことを棚上げして話を進める。
以前、山本夏彦のエッセーを読んでいると、ゲームについて書いているものがあった。
昔の子供は、たいてい目覚まし時計やラジオを分解したものだ。そうすることで、どういう仕組みで
動いているかを知ろうとしていた。
だが、ゲームの機械はコンピューターなので、バラしても歯車やカムが出てくるわけではない。
子供はそのことが分かっているから、誰もゲームを分解したりはしないのだ、というような話だった
と思う。
いろいろ突っ込むところはあろうかと思うが、要するに身の回りの器械がブラックボックス化した
ので、工学的な好奇心が育まれなくなった、ということが言いたかったのだろう。
しかし、子供の好奇心はなくなったわけではなく、プログラム言語を勉強する方向に向かったとも
言えるし、現に高機能のフリーソフトが手軽にダウンロードできるわが国は、別に嘆くような状況
ではないと思う。
ただ、そういう人がいる一方で、どういう原理でものが動くのか、ということに全く興味を持たずに
生きている人もたくさんいる。
原理を知るよりも、その機能をいかに要領よく使うかが大事なのだろう。
例えば、携帯電話がどういう原理で通信しているか、なんてことを女子高生が知るはずもないが、
彼女たちは端末を使い倒している。壊れたら次のを買えばいい。
何か問題でも?
そうすると、試験に出ないものは憶えなくていいし、自分に関係ないことは知らなくてもいい
という考えになるのも自然なことだ。
「それって何の役に立つんですか?」
という言葉もナチュラルに出てくるだろう。
普通に生きていれば、何らかの原理とか、大きな体系の片鱗に触れることがあると思う。
そこをスルーできるのは、無駄なことをしない能力が高い人ではないか。
学校から家に帰るとき、いつも同じ道を通る子と、寄り道をする子の違いかな。
「だって寄り道したら帰るのが遅れるじゃないか」
というのは正論なのだが、もしいつもの道が通れなくなったらどうする?
全てを親や学校のせいにすべきではないのだが、子供は放っておけば余計なことばかりするものである。
それを、最短・最適の解だけを選ぶように矯正すれば、smart になるかもしれないが、wise にはなら
ないのではないか。
もっとも、政府も財界も、根本的なことに疑問を持たれては困るから、要領のいい人間だけを育てて
るんだろうけど。
「生きるって何?」なんて考えるよりも、投資して儲けたお金で女の子と遊ぶ方が楽しいしね。