95年ごろ、私は会社から東西線の竹橋駅に向かっていた。
霞ヶ関の官庁に資料をもらいに行くためだったと思う。
時刻は午後4時前ぐらいだったろうか。
券売機の前で、黒い制服を着た小学生が私に声をかけた。
「すいません、お金を落としてしまったので、貸してください」
彼は5年生ぐらいで、本当に困っているように見えた。
私は、そりゃ困ったねぇ、と言って100円玉を渡した。
「ありがとうございました」
と小学生は頭を下げた。
私はそのまま切符を買って、地下鉄に乗った。
あの小学生にいいことをしたな、と気分が良かった。
それだけの話だった。
しかし、いま思い出すと不思議な点がある。
そもそも、通学しているのだから、定期券を持っているはずだ。なぜ定期を使わなかった
のか?
それに、私はあの小学生が券売機で切符を買ったのを確認していない。
ここから先は、私の妄想である。
たぶん、そんなことはないと信じたい。
彼は、いわゆる寸借詐欺というのをはたらいていたのではないか?
小銭を貸してくれと言って、結局は返さない。貸した方も、小額なので必死になりは
しない。そういう詐欺である。
しかし、一日に10人が引っかかったとして、1000円である。小学生にとって1000円は
でかいと思う。場所を変えて毎日やっていた可能性もある。そうすると、一ヶ月に
中古のゲームソフトぐらい買える金額になるのではなかろうか。
だとしたら、恐るべき小学生だ。
商売の基本は、安く仕入れて高く売ることだ。これは商売の公理と言ってもいい。
原理的に「お買い得」はありえない。客が得をしたように錯覚させるのが商売の肝だろう。
お金を出す側は、何らかの満足感が満たされていれば、絶対に怒らない。
詐欺だと怒るのは、実際に損をしている理由もあるが、満足感が裏切られたからでもある。
私たちは、払う金額以上のサービスを受けたと思えば、深く満足する。
その、金額とサービスのバランスは個々人で違うだろうけど、誠意とか信頼といった、
お金ではない何かを感じたとき、また買ってみよう・また利用してみよう、と思うはずだ。
逆もまた真なり。
で、あの小学生の話にもどる。
私は、困った小学生を助けてあげられたことに満足していた。
小学生も100円玉を得られたことで満足していたと思う。
めでたしめでたし。
ここに疑いを持つのは、大人の嫌らしさかもしれぬ。
しかし、小学生は私に何らサービスを提供してはいないのである。
単に、頭が弱そうに見えたオッサンの善意を利用しただけかもしれないのだ。
彼も、今頃は二十歳ぐらいになっているはずだ。
私立の小学校に通っていたぐらいだから、きっと有名な大学に進学しているだろう。
もはや、どんな顔をしていたのかも忘れてしまったが、もしこのブログを読んでいたなら、
あの100円玉を何に使ったのか教えてほしいものだ。
本当にお金を落としていたのだったら、こんな文章を書いたことを、心から謝罪する。