郷土愛

自分が生まれ育ったふるさとを愛する心を郷土愛というそうだ。
私は四国の愛媛県松山市で生まれ育ったので、普通なら松山に対する郷土愛というものが
なければならないのだが、あからさまに好きだと言えない。


それは、自分の親をあまり人前に出したくない、という気持ちと似ている。
決して大っぴらに自慢できないけれど、他人からバカにされると妙に腹が立つ、という
感覚だ。
こういうのは大人になったらなくなると思ったのだが、オッサンになった今でも同じ
なのは、自分が全く成長していないからだろう。情けない。


私は、むしろ大学生から社会人にかけて住んだ、東京の西荻窪に郷愁を感じる。
そこで生まれ育ったわけではないけれど、松山にいるときより、ずっと楽しく濃い時間を
過ごしたせいか、今でも懐かしく、できれば帰りたい(←?)気持ちになる。


なんでここまで松山に愛情がないのか考えたのだが、引越しのせいではないかという結論に
達した。
私は高校入学までに5回も引越ししている。小学校は2回転校だ。


いずれも松山市内だったのだが、ちょっと慣れたかと思うと次の場所へ移動しなければ
ならず、愛着を育てる暇がなかったのだ。
子供の世界なんて、半径2kmぐらいの狭い場所でしかない。その世界が根こそぎ奪われて
しまうのは、なかなか苦しいことではないか? 


世の中には引越しの好きな人がいるが、私からすると信じられない。
あんな面倒臭いことを何度もするなんて、常軌を逸しているとしか思えないね。
(だが、私は転職を何度もしている。これまた他人からすると常軌を逸していると思わ
れるに違いない)


ふと疑問に思ったのだが、遊牧民には郷土愛というものがあるのだろうか? 
例えば、モンゴルの草原で羊を追いながら暮らしている人々は、草原に対する想いという
ものはあるだろうが、ある限定された場所に対する執着や愛情がないのではないか。


あるいは、砂漠の民のように、土地には何も想いを寄せず、抽象的なもの(一神教)に
拠りどころを求めるのかもしれない。